2019年10月法話 『とらわれないとは握りしめないこと』(前期)

表題の件について、私は浄土真宗の救いそのものを表しており、真宗門信徒が目指すべき方向性だと頂いております。しかし、今の私自身の生活がどうかと問われれば、その真逆であると言わざるを得ません。とらわれっぱなしの生活を送っている状態です。あなたは、いかがですか。

これまでの人生を振り返ると、様々なことにとらわれてきたのではないかと思います。それは、お金のことであったり、健康のことであったり、人間関係のことだったり…、人それぞれに色々にことにおいてだと思います。もちろんそれらの事柄は、人間社会を生きていく上でとても大切で、おろそかにはできないことばかりだったと思います。

誰しも大なり小なり同じようなことで悩み苦しみ、苦労しているのではないかと思います。けれども、それらの問題の全てが、いつもうまくいく(解決する)わけではありません。また、たとえうまくいった(解決した)としても、そこで終わるわけではなく、さらにその上を目指す(別な問題が起こる)ことになったりして、なかなか終わることがありません。まさに、いつも何かにとらわれたままの人生だと言えるかもしれません。

仏教では、「貪欲(とんよく)」という言葉があります。貪欲とは煩悩の一種で、自己の好む対象に向かってむさぼり求める心を起こすことを言い、満足を知らない恐ろしいあり方です。思い返すと、まさに今の私の相、生活そのものを言い当てた言葉ではないかと思います。そして、この煩悩、貪欲の心を取り除くことができれば、そこにはとらわれのない自由な人生が見えてくるのかもしれません。しかし、それはとても難しいことです。

親鸞聖人が書き残して下さった書物(「教行信証」)の中に

誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞
愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず
真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と

という言葉があります。

聖人は、阿弥陀仏の救いの中にある、これ以上のないものを頂きながら、世間の愛欲(むさぼり愛着すること)や名利(みずからの名声を求める名誉欲、自己の利益を求める財産欲)にとらわれ、救いの喜びを持てないことを自覚し、とても悲しまれています。

一見すれば、何とも痛ましくむなしいありさまですが、実はこの自覚こそ救いそのものではないかと思います。自身の相は煩悩から離れることのできないとらわれの身ではあるけれど、そこには真実の法(阿弥陀仏)に照らされているというはたらきが同時に存在するのではないかと思います。そして、悲しむと共にそのことを喜ばせていただくのです。

本当の悲しみは、本当の喜びを連れてきます。そのことを聞いていくことが大切ではないかと思います。とらわれを離れることができない自分ではあるけれども、このとらわれた生こそが自分であると偽らないで、苦しみ悩みながら生きていくこと、そのことに耳を傾けながら、一緒に手を合わせる生活を歩ませて頂ければ大変に有難いことです。