2019年12月法話 『普通の日々も私の大切な足跡』(中期)

家に帰ってから「トイレットペーパーがなくなっていた」とか、「廊下の電球がきれていた」とか、「友だちにLINEの返信をするんだった」とか…、どうしていつも忘れていたことを思い出すのは夜になってからなんでしょうか。それはきっと、あなたが日常の雑多なことを夜しか思い出せないほど、余裕のない毎日を送っているからだと思います。かくいう私も、いろいろなことに追われながら日々を生きている者の一人です。

気がつけば、今年も残り少なくなってきました。ここ何年かは、いつも前半の終わる6月末になると「もう今年も今日で半分終わってしまう。明日からは後半だ~!」といったことを口にするようになっているのですが、7月以降は一月(ひとつき)がまるで一週間くらいの速さで過ぎていくかのようで、本当にあっと言う間に年が暮れて、気がつけば除夜の鐘を撞いているといった感じです。

そうした繰り返しの中で一年、一年が過ぎてしまうので、誕生日が来る度に「いつの間にこんな年齢に…!?。もしかすると、一年に一歳ずつではなく、途中から一年に三・四歳ずつ足しているのでは?」と、疑いたくなってしまいます。そう思うのは、まだ若い頃に感じていた、今の自分と同じの年齢の人たちは、その年齢相応に落ち着いて見えていたのですが、自身を省みると、いくつになっても外見はともかく、内面は「それなりに成長している」とは、とても言い得えないからです。

以前、先輩のご住職が、「10の位が変わる度に、年齢はどんどん加速していく気がする」とおっしゃっておられました。30歳代の頃にその話を聞いた時は「そんなものかな…」といった程度に聞いていたのですが、確かに10の位が変わると、一年一年、どんどん加速していくような感じがしてきました。そして、10の位が変わる度に、一週間が、一か月が、そして一年が、本当にあっという間に過ぎていきます。

このことを端的に教えてくれているのが、「少年老い易く学成り難し」という有名な言葉です。以前は、中国南宋の思想家・朱熹の作だとされていましたが、朱熹の詩文集にはこの詩が見当たらないことから、近年は日本の禅僧の作ではないかという説が提唱されています。

今はこの言葉の作者が誰かということはさておき、意味は

「若いうちはまだ先があると思って勉強に必死になれないが、すぐに年月が過ぎて年をとり、何も学べないで終わってしまう。だから若いうちから勉学に励まなければならない」

ということです。高校生の頃に初めてこの言葉を読んだときは、まだ10代だったということもあり、特に感銘を受けることもなかったのですが、最近は身に沁みて実感するようになってきました。

それと同時に、「これまでの人生で、自分はいったい何をしてきたんだろうか」と、時折思うようにもなってきました。決して、ボーッと生きてきたわけではありませんし、その時々において、自分なりに精一杯生きていたつもりではいるのですが、20歳代はどんな年だったか、30歳代は…、40歳代は…、50歳代は…といった調子で確かめをすると、何かしら漠然としていて、どの年代も「いろんなことに追われながら、あっと言う間に走り抜けてきた」という言葉が一番しっくりとくる感じです。言い換えると、「ありふれた毎日を普通に過ごしてきた」といったことになるのでしょうか。

それなりに、思い返せば嬉しかったり楽しかったり、幸せな思いに浸ったこともありますし、一方辛かったり悲しかったり、時には悔しい思いをしたこともあります。まさに悲喜こもごもの歩みです。

自分の人生が、いつも好ましいことばかりに満ち溢れていれば良いのでしょうが、頑張っているつもりでも全然うまくいかない日もあれば、自己嫌悪に陥ってしまう日もあります。

けれども、どの一日が欠けても私の人生は成り立たないのです。そうすると、何か取り立てて特別なこともなく、他の人から見たら平々凡々な毎日であったとしても、私にとっては普通の日々もかけがえのない一日であり、すべてが大切な足跡だと言えるように思われます。