2020年1月法話 『阿弥陀 ひかりといのちきわみなし』(中期)

「阿弥陀」というのは、インドの「無量」を意味する「amita」という言葉の発音を漢字に写したもので、漢字そのものに意味はありません。amittbhaというのが「無量光(ひかり)」で、amittyusというのが「無量寿(いのち)」です。では、「ひかり」と「いのち」が「きわみない」とは、どのようなことなのでしょうか。

「無量光」とは、「私の光に限りがあって、よく照らすことのできないところがあるようなら、私は仏にはならない」という誓いを建てて、それを成就された阿弥陀仏のはたらきを空間的にあらわした言葉で、「智慧」を意味します。

仏教では、私たちの迷いの心を「無明」といいますが、無明というのは本当の意味での光を持たない生き方のことです。例えば、今自分のいる部屋を真っ暗にすると、私たちがその暗闇の中でできることは、手さぐりをしながら部屋をうろうろすることだけです。そのように、光がないときの私たちの生き方は、手さぐりをしながら生きる他はありません。この手さぐりの生き方とは、自分がそれまでに経験したことや知識として身につけてきたことだけを頼りに、いろいろなことを判断して行こうとするあり方です。そうなると、いつも自分の体験だけにとらわれてしまい、物の見方が一面的になって物事の本質を見抜くことができなくなってしまいます。そして、自分の体験したことだけを後生大事に抱え込んで、それを絶対的な基準にして人生そのものを解釈するといったあり方に陥ってしまいます。

また無明は、文字だけを見ると「明かりが無い」ということから、闇の中を手さぐりで歩いているような状態を思い浮かべますが、そうではありません。本当のいちばん深い闇は、分かっているという思いです。自分では、間違いないとして全て分かっていると思い込み、聞き直すこともなく決して自分を振り返ることのないあり方が、無明という言葉で表されているのです。私たちは、分らないときにはそのことを問い、聴こうとしたしますが、分かっていると思ったときはそこに落ち着いてしまいます。そうすると、大事なことは分ることよりも、自分が何も分かっていないことを本当に知るということだと言えます。

仏法の智慧が光で表されるのは、私たちの誰もが持っている自分の体験への執着そのものを破るはたらきをするからです。この仏法の智慧というのは、あれも知っているこれも知っているということではなく、まわりがはっきりと見えるということです。そしてそのことは、同時に手さぐりをしている自分自身がはっきりと見えてくるということです。

見えてくるというと、何となく自分を中心にしてまわりを眺めているような印象を持つのですが、そうではなく本当に見えてくるというのは、あるがままの事実にしたがって生きていくことができるようになるということです。私たちは日々の生活において、自分の想いと現実が違うとおかしいと思ったりしますが、それがたとえ今まで自分の体験によって培ってきたものの考え方や見方を根底から覆すようなことであったとしてしても、それが事実である限り、我が身の事実として受け止め、生きてゆく勇気と情熱としてはたらくのが仏法の智慧です。

仏法を聴くということは、智慧の光に照らされその光に包まれて生きるようになるということですが、手さぐりの生活とは、どこまでも自分の体験だけがよりどころにして生きるということです。そのときは自分自身をよりどころにして生きているような感じがするのですが、実はそうしている自分自身は少しも見えてはいません。自分自身の姿というのは、他の人と出会い関わりを持っていく中で、次第にあらわになり見えてくるようになります。それは、他の人の生き方を通して、自分の生き方が分かってくるということです。それは、自分を超えた世界にふれたとき、初めて自分の姿が見えてくるようになるということです。

私たちは、何も知らないのではなく、自分が知らないことを知らないまま全てを分ったつもりになっています。無明の闇の暗さとは、知らないという暗さではなく、分ったつもりになっている暗さのことで、その深い闇を破る光のはたらきに限りがないというのが「無量光」、「ひかりきわみなし」ということです。

次に「無量寿」ということですが、「無量光」が仏さまの智慧を表すのに対して、「無量寿」は仏さまの慈悲を表します。では、いのちに限りがないということが、慈悲を表すというのは、いったいどのようなことなのでしょうか。

一般に「無量寿」というと、私たちはこの肉体の命が八十年とか百年というような限られたものでなく「不老不死」とか「不老長寿」といった、命が数千年とか数万年と続いていくかのような印象を持ちます。現代の科学力を駆使すれば、肉体的な面ではそのようなことも理論的には実現することが可能なのだそうです。具体的には、いちばん増殖力の活発な赤ちゃんの細胞を移植して、老化した細胞と次第に替えることを繰り返していけば、いつまでも若々しさを保つことができるそうです。

けれども、果たして不老不死とか不老長寿といった「いつまでも死なない」ということが、私たち人間にとって本当の意味で幸せなことかというと、どうもそうとは言えないようです。なぜなら、寿命の寿という字は「ことぶき」、つまり喜ぶということですが、これは生きるということの内実に喜ぶということがともなわなければ、本当の意味でそれは生きているということにならないということを意味します。私たちは、生きていく中で、自分の思い通りにならないことや、辛いことや悲しいことに遭ったりすると、時として死んでしまいたいと思うようなことがありますが、それではたとえ生きていても本当に生きているとはいえなくなります。

ところで、なぜ私たちはそのように死んでしまいたいと思ったりするのでしょうか。仏教は人間の欲望をいろいろと説き明かしていますが、その一つに「三愛」ということがあります。一は「欲愛」です。これは、いろいろな物や物事などに対する愛着です。具体的には、物や地位とか名誉などに対する欲で、所有欲ということができます。二は「有愛」です。これは、自分が存在していることに対する愛着です。具体的には、いつまでも生き続けることができるようにという生存への欲です。三は「非有愛」です。これは、自分が存在しなくなることへの愛着です。具体的には、自分がこの世に生き続けることを拒否したい欲のことで、仏教では自殺をこの非有愛という言葉で押さえます。一般に自殺は自己を放棄することのようにとらえられがちですが、自分を放棄するので、あればあえて死ぬ必要はありません。成り行きにまかせて、無気力なままに生きればそれでよいからです。けれども、自ら死ぬというのは、実は自己主張なのです。今の自分の状態・状況を受け入れることはできないとして、この納得できないあり方のまま生き続けていくことを拒むために自らの命を絶つのです。したがって、自殺は自己愛のひとつの形だといえます。つまり、人は苦しみのあまり、自らの人生のすべてを否定するという形で、自分を確保したいという心を持っているのです。これが、非有愛と呼ばれる自分に対する愛着です。

そうすると、死なないことがそのまま喜びと重なるとかというと、そうとはいえなくなります。生きていることに喜びがともなわなければ、むしろ死ねないことは苦痛になってしまうからです。死なないということは、終わりがないということです。私たちは、どんなに苦しいことがあっても、終わりがあるということで救われる面があるのですが、その苦しみに終わりがなくなれば、いつまでも耐えられない苦痛にさいなまれ続けることになります。

このような意味で、地獄こそが長生不死の世界なのです。なぜなら、地獄では多くの責め苦にあってようやく死んでも、すぐに生き返ってまた一から責めさいなまれ、絶え難い苦悩が限りなく続いていくからです。したがって、生きていることに喜びがともなわなければ、長生不死はけっして喜ばしいものにはならないのです。

この生きていることの喜びというものは、孤独な中にあると出てくるということはありません。必ず「共に喜ぶ゛」というかたちをとります。源信僧都は地獄について「われいま帰るところなし。孤独にして無同伴なり」といわれます。どんなに嬉しいことがあっても、それを共に喜んでくれる人がいなければかえって空しくなりますし、どんなに悲しくても共に語り合える人がいれば耐えていくこともできます。つまり、生きていることの喜びは、けっして孤独というところにはないのです。

仏さまの寿命が無量だということは、どこか遠いところに仏さまがいらっしゃり、その仏さはいのちに限りがないというようなことではありません。寿命が無量だということは、私のために願い私がその仏さまの願いに目覚めるまではたらき続けてくださるということなのです。そして、そういう働きに頷くことができたときに、親鸞聖人が「「親鸞一人がためなり」とおっしゃったように、「無量寿」が慈悲として感じられるようになるのです。

そうすると、「無量寿」ということは、私の命が限りなく続いていくということではなく、多くの人びとに生きる勇気を与え、生きる喜びを与え続けていくはたらきに限りがないということが「いのちきわみなし」ということだといえます。