2020年1月法話 『阿弥陀 ひかりといのちきわみなし』(後期)

今年も「新年」を迎えることができました。お正月といえば、初詣、お年玉、お雑煮、凧揚げ等が思い浮かび、何となく心がウキウキします。「新年、おめでとうございます。」との挨拶も交わされますが、近年、年を重ねていくたびに、私の中に「本当におめでたいのかなあ」との声が聞こえてきます。楽しさよりは、思うにまかせない現実の苦悩(老い、病い等)が迫ってきます。そして、一休禅師の

「元旦や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

という歌が、現実味を帯び、浮かれる心に冷や水をかけるといいますでしょうか、現実に引き戻す風刺力を感じます。そしてまた、同時に

「ひとり去り ふたり去りゆく娑婆なれど 浄土の旅のこころ強さよ」

との歌に励まされることもあります。そういえば、初詣を想定したような法語として、「本当に神仏を拝んでいますか 欲望を拝んでいませんか」との、どきっとするフレーズにも出会いました。病気が治りますように、長生きができますように、お金がもうかりますように・・・そんな私に、「欲望に溺れ、欲に振り回されている、あなたに自身にまず気づきましょう」との神仏の声が聞こえてくるようです。

さて、「正月」や「結婚」など、お目出度い事柄に相応しい漢字に「寿」が、また、好ましい事柄の時に使用される「賀寿」「寿福」「光寿」などの熟語もあります。しかしながら、逆に、あまり好ましくないと思われる時にも使われる熟語があります。それは「寿命」です。この「寿命」について、山本仏骨和上のご法話が、こころに残っています。

『よく、お別れとき、寿命が尽きた、寿命には勝てんというが、それはおかしい。寿命の命には、長い短かいがあるが、寿命の寿は、ことぶきで、喜びという意味がある。したがって、喜びをもって生きる、めでたく人生を生きることが寿命を生きることである。・・・<寿>とは仏法の言葉。仏法を聞けば、どんな人生でも、阿弥陀さまは空しく終わらせないと呼んでくださる。それが南無阿弥陀仏というみ名であり、み声である。その呼び声に呼び覚まされて、喜びの人生へと転じられるのです。・・・』

「寿命」という言葉は、日常においては「限りのあるいのち」という意味で、肩を落とし、諦めを強いる時に使われがちですが、それと別に仏教では、「寿命を生きる」「いのちを喜びの中に生きる」「阿弥陀のいのちを生きる」という、前向きな意味でも使われます。

親鸞聖人は、「皆さん、長生きをしましょう」とは言われませんでした。問題にされたのは、その「生きざま」です。

「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひと 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」

たとえ長生きができても、社会的に恵まれても、愚痴や不平不満に振り回され、「空過」(空しく過ぎる)することがあっては、残念なことです。わが人生ながら、有り難い、尊い人生でしたと気づかされる、「覚醒」(めざめる)する人生でありたいものですねと、親鸞聖人は教えて下さいました。つまり、「空しく過ぎることのない人生」とは、限られたこの世のいのちにとどまるこのない身であること、いつも大悲に照らされ、大悲につつまれている身であることに目覚めることです。

今月のカレンダーの法語「阿弥陀 ひかりといのち きわみなし」は、この「身」のありようを常に知らせて下さいます。「阿弥陀」とは、「無量寿・無量光」とも訳され、「いつでも、どこでも、いつもいっしょですよ」との阿弥陀さまからの呼びかけであり、私へのうながしでもあります。

「無量寿」とは いつでも、ということ 「いま」ということ

「無量光」とは どこでも、ということ 「ここ」ということ

『正信偈』の意訳であります「しんじんのうた」には

「ひかりといのちきわみなき 阿弥陀ほとけを仰がなん」

と記されています。