陸上競技に障害走というのがある。ハードルがいくつもあってそれを飛び越えてゴールを目指す。昔、陸上部だった私は障害走の選手だった。
真っ直ぐにならんだハードルの先にあるゴールを見ながら、「なぜあそこにゴールを作ったのか。あそこにゴールを作るからハードルが障害になるのだ。ゴールを少しずらせばハードルを超える必要はないじゃないか」と、そんなことを思っていた。
障害とは、ゴールが決まって初めて、それを妨げるものが障害となる。
目の不自由な方と接することがある。もしこの方と100メートル競走をしようものなら、私の方が早くゴールにたどり着くだろう。早く走るということをゴールにするならば、不自由な目が障害となる。
しかし、その方と話していて感じるのは、とても豊かな世界を生きていらっしゃるということ。言葉にするのは難しいが、私は五体満足ゆえに、人の優しさをないがしろにしている部分があるのではないか。他人の優しさを感じ取るとか豊かな世界を生きるということをゴールと設定するなら、この身体が障害になっているのではないかと感じる。
とにもかくにも、ゴールが何かによって何が障害かは変わっていくと思う。生きる目的・ゴールってなんだろう。それがもしわからないならば、何が障害か、だれが障害者かわからないのではないだろうか。だから「障害者」という言葉を使うたびに何か違和感がある。
人間って不思議な生物だと思う。生物というものは自分のDNA・自分の子孫を残すために様々な進化を遂げてきた。いわば、子孫を残すことが生物の生きる意味であるといっても間違いではないだろう。
しかし、人間は生物でありながらそうとも言えない。人間が生きる目的は簡単にわかるものではないと思う。生きる目的・ゴールってなんだろうね。じゃあ障害ってなんだろうね。それは個性かもしれないねと、みんな横一列で決めかねている状態が人間味があって好きだなと思う。
最近、「碍」という漢字を常用漢字にできないかという話し合いがなされているらしい。障害者の「害」の字に替わって使えるようにとのニーズがあるようだ。しかし、DPI日本会議(障害の有無によって分け隔てられることのない共生社会を実現するための取り組みを進める障害当事者団体)の佐藤聡事務局長さんは「障害者自身が差し障りをもたらす存在ではなく、社会にある障壁が障害者を作り出してきたとの考えに基づき、言葉を替えることにあまり意味はない」という、意見を述べらておられた。
そうか社会が障害者を作り出してきたのか。なるほど、非常に興味深い視点だなと感じた。