2020年5月法話『見ているよ 知っているよと仏さま』(前期)

あなたはうれしいことがあったり、喜ばしいことがあったりしたときには誰かにお話をしたい、その喜びを誰かと分かち合いたいと考えませんか。あるいは、誰かにやさしくされたりしたら、そのやさしさをまた誰かにおすそ分けしたい、と考えるかもしれませんね。うれしいことや喜ばしいことを独り占めにして誰にも話さない、という方はあまりいないように感じます。やはり喜びを分かり合える方が一緒にいるということは、とても尊いことだと思います。

また、それとは逆に嫌なことや辛いこと、悲しいことや腹が立つことがあったらどうでしょう。喜びごととは違い、今度はそのことを共感してくれる、あるいは一緒の立場にたって考えて寄り添いながら癒してくれる方がそばにいてくれたらいかがでしょうか。とてもありがたいことですよね。その方がいてくれたからこそ、立ち直れたり笑顔になることができたりしということもあるでしょう。そうやって自分にとっていろんなことに寄り添ってくれる方がいることは、私が歩む命においてとても尊く素敵なことではないかと思います。

一方、私が考える命の歩みにおいて、一番つらいことは『孤独』であることではないかと思います。嬉しいことや喜ばしいことがあったときに、それを誰にもわかってもらえない、伝えられる方がいない、これはとてもさみしいことではないでしょうか。辛いことや悲しいことがあったときに、だれも寄り添ってくれない、こんなにせつないことはなかなかありません。

いま、親が子どもを育てる『子育て』を、孤独に子どもを育てる『孤育て』で呼ぶことがあるんだそうです。子どもを育てる嬉しさや楽しさ、また自分の思い通りにならないことの辛さや悲しさを誰とも分かち合うことなく、お母さんやお父さんが一人で育てる現代の社会の姿を揶揄した言葉といえるでしょう。十数年前までは親だけでなく、祖父祖父母、友人や地域の方々などいろんな方が支えあいながらみんなで子どもたちを育てる姿がありました。しかし、今はその子育てが孤独に子どもを育てる辛い孤育てになってきてしまっているのです。こんな辛い環境の中で育てられた子どもたちは、未来にどんな展望をもちながら育っていくのでしょうか。とても悲しく不安を感じざるをえません。

仏さまに手を合わせていくと、自身が決してひとりではなく、たくさんの命に支えられていることに気づかされます。合掌には右手が仏様、左手が私自身を表し、その互いの心が通わせられるという意味があります。すなわち私の命がここにあって、その命を支えてくれる尊い心が常に共にある私の命は決して一人であるものではない、孤独ではないということを感じることができるのではないでしょうか。わたしのことを『しっているよ、みているよ』とお姿はそこにみえなかったとしてもお心としてともにあることを感じることができたなら、私の命のありがたさをより深く喜びのもとに感じ味わうことができるのではないかと思います。

今日もまたお手を合わさせていただくなかで、心を通わせ、今日の日の尊い命を喜ばせていただきながら、笑顔ですごしていきたいものですね。