「私たちのちかい」について

これまで、私たちの教団では長い間、昭和33(1958)年4月16日に、大谷本廟親鸞聖人七百回大遠忌法要「御満座の消息」において、本願寺第23代勝如上人が示された「浄土真宗の生活信条」が真宗門徒の生活の規範になっていました。次の四箇条がそれですが、いま読んでも端的によくまとめられている気がします。

  • 一、み仏の誓いを信じ尊いみ名をとなえつつ強く明るく生き抜きます
  • 一、み仏の光をあおぎ常にわが身をかえりみて感謝のうちに励みます
  • 一、み仏の教えにしたがい正しい道を聞きわけてまことのみのりをひろめます
  • 一、み仏の恵みを喜び互いにうやまい助けあい社会のために尽します

これに対して、平成30(2018)年11月23日の秋の法要で現ご門主から「念仏者の生き方を人々により親しみ、理解していただきたい」という思いから、その肝要が「私たちのちかい」として次の四ヵ条にまとめて示されました。

私たちのちかい

  • 一、自分の殻に閉じこもることなく
    穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
    微笑み語りかける仏さまのように
  • 一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
    しなやかな心と振る舞いを心がけます
    心安らかな仏さまのように
  • 一、自分だけを大事にすることなく
    人と喜びや悲しみを分かち合います
    慈悲に満ちみちた仏さまのように
  • 一、生かされていることに気づき
    日々に精一杯つとめます
    人びとの救いに尽くす仏さまのように

この「私たちのちかい」は、「特に若い人の宗教離れが盛んに言われている今日、中学生や高校生、大学生をはじめとして、これまで仏教や浄土真宗のみ教えにあまり親しみのなかった方々にも、さまざまな機会で唱和していただきたい」とのことで、多くの人々がこのちかいを唱えながら念仏申す道を歩んでいくことが願われています。

けれども、この「私たちのちかい」を読んだ瞬間、正直なところ強い違和感を覚えました。それは、他の教えの説くところとよく似ている気がしたからです。他の教えとは、具体的にはキリスト教です。イエスの教えをわかりやすくいうと

  • 神に愛されるように、神を愛しなさい
  • 自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい

ということになります。このことから、キリスト教とは神が愛するように自分も神を愛することで救いの道が開かれると説いている教えだと考えることができるのですが、「私たちのちかい」も最後は「仏さまのように」という言葉で結ばれているので、「仏さまが○○されるように、私たちも○○します」という言い回しは、基本的には同じではないかと思われるのです。これが、まず「私たちのちかい」を読んで感じた違和感です。

次に、「浄土真宗の生活信条」は「み仏の誓いを信じ」「み仏の光をあおぎ」「み仏の教えにしたがい」「み仏の恵みを喜び」と、いずれも私たち真宗門徒にとって成すべき大切なことが端的に示されています。ところが「私たちのちかい」の一番目から三番目はどれも「自分の殻に閉じこもることなく」「むさぼり、いかり、おろかさに流されず」「自分だけを大事にすることなく」と、いずれも何らかのあり方を否定する言葉で始まっています。これが、次に感じた違和感です。

まず「自分の殻に閉じこもることなく」とのことですが、確かに人には殻にとじこもる時があります。けれども、それはその人なりの理由ガあるからです。私たちは、日々さまざまなストレスの中で生活しています。そして、ストレスには、はっきりと自覚できるものもあれば、自分では気付かないまま無意識の内に耐えているものもあります。よく「ストレス発散」という言葉を耳にすることがありますが、私たちは休みの日に誰かと遊びに行ったり、一人で好きなことを思い切り楽しんだりすることで、日頃ためたり抱えたりしているストレスを抱えきらなくならないようにするために調節しています。それでも、うまくストレスを解消しきれなかったり、ストレスが大きすぎてどうにもならなかったりすると、それ以上疲れ切ってしまわないように休息をとろうとして、外からの刺激を遮断すること、言い換えると殻に閉じこもることがあったりするのです。

また、社会問題化している「ひきこもり」も、外から見るとひきこもっている人たちはあたかも自分の殻に閉じこもっているかのように見えますが、その人たちは原因を尋ねられても決定的な原因が思い当たらないことがあったりすることもあるようです。にもかかわらず、いきなり「自分の殻に閉じこもることなく」といった誓い唱えることを求められると、途方に暮れるしかなくなるのではないかと危惧したりもします。

おそらく、この「ちかい」は、少なくとも殻に閉じこもらざるを得ない人に向けてのものでないことは明白だと思いますが、ではこの言葉はいったい誰に対して向けられているのか、その明確な説明がないため、強い違和感を覚えてしまいます。

次に「むさぼり、いかり、おろかさに流されず」とのことですが、この三つは「貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)」の三毒(さんどく)の煩悩をさしています。三毒とは、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩のことで、私たちの身を煩わせ心を悩ませる「煩悩」を毒に例えたものです。

宗祖親鸞聖人は、『信巻』で真の仏弟子・仮の仏弟子・偽の仏弟子についてすべて明らかにされたあと、普通なら「すべての仏弟子のあり方がわかった。だから私は真の仏弟子となったのだ」と言われそうなものですが、その後に続くのは次の文言です。

悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の大山(たいせん)に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを。恥づべし、傷(いた)むべし。

と悲歎しておられます。これを「現代語訳」すると

「悲しいことですが、愚かな親鸞は、愛情欲望の広海に溺れ沈み、名誉や利得の大きな山道に迷い惑い、信心を得て正定聚の仲間に入ることを喜ばず、真実の証(さとり)に近づくことを楽しまない。まことに恥ずかしく、傷ましいことです。」

ということになります。ここで着目すべきことは、親鸞聖人が釈尊の仏弟子であることを示す「釋」の一字をあえて抜いて「愚禿鸞」と記しておられることです。それは、仏弟子のあり方のすべてが分かりながら、真の仏弟子となり得ないことへの痛切な自覚が仏弟子たることを証する「釋」の字を記すことを許さなかったからだと思われます。

仏教には「解学」と「行学」という二通りの学び方があります。「解学」とは、煩悩とは何か、悟りとは何かといったことなど、知識として仏教を学ぶことで、これは自在に学ぶことができます。一方「行学」とは、知識として学んだことを生活の中で体験を通して深めながら学んでいくということです。

そうすると、煩悩とは何かということが分からないときは、私たちは「欲に惑い、怒りくるい、愚癡をこぼしながら生きている」のですが、煩悩とは何かということを知ると、「欲に惑い、怒りくるい、愚癡をこぼしながら生きていかざるを得ない自身の愚かさに気付く」ことになります。にもかかわらず、「むさぼり、いかり、おろかさに流され」ないことを誓えといわれたのでは、途方に暮れざるを得ません。この言葉は、お念仏の教えを聴き始めた人を絶望の淵に立たしめようとしているのではないかと心配になってしまいます。

また、その後に続く「しなやかな心と振る舞い」ですが、しなやかという言葉には次のような意味があります。

  1. 弾力があって柔軟なさま
  2. 身のこなしが上品で優美なさま
  3. 考えや対応が柔軟なさま

「しなやか」は、一般には、体つきや身のこなしに使われますが、心の柔軟さにも使われ、多くは肯定的な場面で発せられます。「しなやか」は漢字で表すと「撓やか」と書きますが、この漢字には「たわむ」という意味が含まれています。たわむというのは、「他から力を加えられて弓なりに曲がること」で、ここから転じて「しなやか」という言葉が生まれたと考えられているようです。

しなやかな人の特徴は、おおむね次の3つです。

  1. どんな時でも柔軟な行動がとれる
  2. 懐が深い
  3. 上品な言動により、他者とのコミュニケーションが円滑

しなやかな人は、どんな状況下であっても柔軟な対応ができます。たとえトラブルが起こっても、慌てることなく冷静な判断を行い、ピンチを切り抜けていきます。焦ることがないのは、心に余裕があるからです。そして「これでなくてはいけない」というような固定観念がないので、その場の状況と自らの考えを信頼し、行動に移すことができます。さらに、しなやかな人は包容力があります。外部からストレスがかかったとしても、それを受け入れるだけの懐の深さがあり、いろんな人の意見を聞き入れるだけの心のゆとりをもっています。また、しなやかな人は言動にも品があり、いつもにこやかです。心に余裕があり許容範囲が広いので、たとえ相手と考えが真逆でも、その違いを受け入れることができます。だからこそ、他者に優しくしたり、相手からも信頼を得ることができたりします。

こういった心のしなやかさを持つには、まず自分自身の弱い部分、苦手な部分を認めることが大切だと言われます。人には誰にでも「できない部分」「苦手とする分野」があるものです。それは言い換えると、その事実を認め、受け入れることです。そうすると、大切なのは「むさぼり、いかり、おろかさに流され」ないことではなく、日々そういったことに流されながら生きている事実を認め、受け入れることで、そこからしか「しなやかな心や振る舞い」は身に使いないのではないかと思われます。

次に「自分だけを大事にすることなく」ということですが、人はいわゆる「自己中心」でなければ生きられないときもあります。乃木坂46に「ジコチュウでいこう」という楽曲がありますが、その歌詞の中の

この瞬間を無駄にはしない
人生あっという間だ
周りなんか関係ない
そうだ何を言われてもいい
やりたいことをやるんだ
ジコチューだっていいじゃないか
マイウェイ マイウェイ

あるいは、

今しかできないことがある
絶対 どんなに呆れられても
思い通りやるべきだ
嫌われたっていいじゃないか?
マイペース マイペース

そして、

みんなに合わせるだけじゃ
生きてる意味も価値もないだろう
やりたいことをやれ
ジコチューで行こう!

といったフレーズに共感を覚える人もいたりすると思います。さすがに「傍若無人」という在り方はいかがなものかと思いますが、人は時には「自分だけを大事にしなければならない時」も確かにあります。

私は、勤務している職員が、心が不安定になってうつ状態に陥り、仕事ができなくなった時、「自分だけを大事にすることなく」とは言いませんでした。「自分が休むと他の職員に迷惑をかけてしまうので、少しでも早く治るように頑張ります」と言う職員に、「頑張らなくていい。自分で自分の心をうまくコントロールできない状態なのだから、いつまでに治さないといけないとかいうことも言わない。とにかく、今は自己中心でいい。自分のことだけを大事にして、先ずは心身共にゆっくり休めなさい」という助言しました。

人は、誰もがみんな自分が愛しくかわいいのです。にもかかわらず「自分だけを大事にすることなく」と言われたのでは、耳を塞ぎたくなってしまいます。むしろ、そのことをきちとんと認めた上で、「自分を大事にするように、周囲の人も大事にしましょう」といった方が受け入れやすいのではないかと思います。キリスト教でいうところの「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」といったところでしょうか。

そもそも浄土真宗の本尊である阿弥陀仏は、法蔵菩薩と名のり、師である世自在王仏のみもとで四十八願を誓われた時、必ず「設我得仏(もし自分が仏になったならば)」という言葉ではじめておられます。「ちかい」ということであれば、そのような言い方を踏襲するべきではなかったかと思います。

また、これが「私のちかい」なら良かったのですが、「私たちの…」ということでみんなで唱えることを推奨されても、「仏さまのように」できないことを自覚している者としては、できないことを誓えといわれても苦痛でしかないので、「〇〇ではなく」と否定から始めるのではなく、例えば

一、私は、できることなら
微笑み語りかける仏さまのように
穏やかな顔と優しい言葉を大切にします

一、私は、できることなら
心安らかな仏さまのように
しなやかな心と振る舞いを心がけます

一、私は、できることなら
慈悲に満ちみちた仏さまのように
周囲の人と喜びや悲しみを分かち合います

一、私は、できることなら
人びとの救いに尽くす仏さまのように
日々を精一杯つとめます

最後が「仏さまのように」という言葉で結ばれていると、思わず「無理」とつぶやいてしまいますが、語順を入れ替えたり、「できることなら」という言い方で始めたりすると幾分表現も和らぎますし、「大切にします」「心がけます」「分かち合います」「つとめます」で結ばれると、人々の共感を得られるのではないかという気がしています。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。