散骨や永代供養(合葬)などが広まり、お墓の必要性がわからなくなっています。お墓の必要性とは何でしょうか。

今と昔とで生活スタイルや考え方が変化し、それに合わせてお墓の事情も大きく変わってきたように思います。自坊においても、お墓の後継者がいないという方に対して永代供養(合葬)を用意しております。時代が変わってもお墓は確かに必要なものだと思います。しかし、人によっては現実的に管理が難しい方もいらっしゃいます、その方にお墓の維持を強制する事はもちろん出来ません。ただお墓を継続するにしても、離れていくにしても、それぞれに何が大事かをじっくりと考えるきっかけにしていくことが大切ではないかと思います。

私が調べた限りですがお墓の歴史は、日本において縄文時代の頃には既にあったようです。縄文時代は仏教伝来前ですので、その時から何かしらの宗教的信仰を通して死者を弔う習慣があったということです。また、お釈迦様はお墓について、生死を学ぶ場として大切にしていたとされます。しかし、それはあくまで法の重要性(生死の問題)を見出すためであり、逆にお墓・お骨そのものに価値を見出し、それらに執着することを危惧していた一面もあったとされます。ですのでお釈迦様は生前、出家者が遺体の処理に関わらないよう伝えたとされます。また、浄土真宗をお開き下さいました親鸞聖人は、ご自身が亡くなられた後のことについて、以下の言葉で言及されています。

「某 親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」(註釈版 P.937 改邪鈔)

「もし私がこの世との縁を尽きたならば、その遺体は鴨川の魚に食べさせなさい」

お釈迦様と同様に身体、お骨といった執着から解放されている(法を拠り所としている)ことが伺えます。

現代において、お墓とは先に往かれた方のお骨やそれに準ずるものを収める場所、故人に対して想い偲ぶ場所として、大切な役割が確かにあると思います。それは、あくまで自分自身がいつかこの世との縁を尽きていくことを確認し、仏様の教えに出会っていく場所としての受け止めがあるからではないかと思います。もし、お墓やお骨が全てであるという受け止めならば、ややもすればそれが先祖の祟り、呪いなど仏教とは違った思想に移り変わっていく危険性があるようにも思います。あくまで大事なのは教え「阿弥陀仏のはたらき(南無阿弥陀仏)によって、必ず浄土の仏となっていくこと」であり、お墓、お骨はそのことを私に知らせてくれるものではないかと思います。

現代のお墓の事情について、後継者がいない、遠く遠方に住んでいるため物理的に管理が難しい等の問題が出てくるのは、仕方のないことだと思います。そして、それに合わせて墓じまいや散骨、永代供養(合葬)など負担がなくなるような選択肢が出てきたこともある意味では、私たちにとって大切な問題提起ではないかと思います。お墓の必要性について明確な答えを求めるというより、現実的な課題に向き合いながら自分自身にとってのお墓、お骨、仏法はどうはたらいているか、振り返るきっかにしていくことが大事ではないかと思います。