「供養」とはどのようなことですか

供養と聞くと、先祖供養という言葉に代表されるように、亡くなられた方々、故人に対しての供養、弔うという印象は多くの方がイメージされることと思います。

はじめに申し上げますと、浄土真宗においては、先にあげたような意味合いでの供養という考え方はいたしません。だからといって、多くの皆さまが故人を偲ぶ気持ち、亡き方への供養の形というものが否定されるものでももちろんありません。

では、法事は誰のため?供養は誰のためにするの?と不思議に思いますよね。

供養とは誰に向けられた言葉なのか。私たちが大切に心掛けておきたいことについて少し触れてみたいと思います。

まず仏教は、誰に対しての教えなのか、誰に説かれているのか、ここを正しく踏まえておくことが大事です。

その対象は故人でも他の誰かでもなく、それは「私」であります。どこまでも、常に私という存在が仏様の教えの目当てであり、私ありようを仏教に尋ねながら確かめていきます。

自分という命の存在をまず大きく意識してください。

その意識を基本として「供養」ということを改めて伺うと、供養という言葉のルーツは古代インド、サンスクリット語のプジャナー(pūjanā)、「尊敬」という言葉を語源とし、仏様方に香、華、灯明などの供物を捧げることとされてきました。つまりは供養の「供」はお供物の供、お供え物を指します。

お仏壇を例に見ても、お花を捧げ、ロウソクに明かりを灯し、お香を供える。まさしく供養の形、お荘厳(仏前に香華を捧げきれいに整える)であります

もう少し思いを深めて言うと、仏様を敬う心、讃える心、自分の人生の生きる歩みの中に、敬うべき尊い存在を身近に感じながら、その一つの姿としてお供えを捧げ、讃嘆していくことです。

ではその行為はどこに向けられていくのか、ここが肝要なところですが、仏教の教えの目当ては誰でしたか?

そうでしたね、「私自身」でありますから、供養という行為の中には当然私がその対象となるのです。供養の「養」は、私の心が養われていくことです。

仏様を讃え、お供物を捧げる行為を通して育まれるべき存在は、故人ではなく、私であったと気づかされます。私の心が、気持ちが、生き方が養われていくところに、仏様の大きな願いがあります。

故人の行く末を願うのではなく、実はその逆で、亡き方々が今は仏と成り、あなたの人生を、いただいた命を大切に生きてくださいねと願い、呼びかけてくださる。

その仏様からの願いを、供養を通して私が聞かせていただくのです。

いかがでしょうか、少しは供養に対する意識に変化があったでしょうか。

「私が」願うのではなく、「私を」願っていてくださった仏様でしたと味わいつつ、また新たな気づきの中で仏様と向き合ってみてはいかがでしょうか。