猫たちに思う

ここ2、3年だろうか。数匹の猫たちが入れ替わり立ち代わり、お寺の境内に出入りしている。

最初は、「自由」すぎる猫たちにイライラしていた。

お寺の庭ならまだしも、ある時は本堂の中に、ある時は納骨堂の2階に、ある時は屋根の上で日向ぼっこしたりするなど、「勝手」すぎるからだ。

そして、何よりも「迷惑」なのは、「用を足して」何ごともなく、立ち去っていくこと。

猫たちのフン、ニョウは決していい匂いではないし、気づかずに、糞だけに踏んでしまうこともあった。

イライラは最高潮。

思わず、近所の猫好きの方に、相談あるいは愚痴だったのかもしれないが、窮状を告げたところ、その方が、毎朝、片付けに来て下さることになった。

今では、猫たちのおかげで、その方(私は猫の相談員さんとして頼りきっているのだが)との距離がぐっと近くなり、「ご縁」であったと喜ばしく思う。

そして、いつしか、野良猫から猫たちへ、猫たちから「君たち」へと話しかける言葉も変わってきていた。

「君たち寒くない?」「暑くないの?」「のどが渇いてた?」「車には気をつけて・・・」。

そして、「君たちは本当にいつも自由なんだね、人間と違って競争とかしていないみたいだし」と。

君たちはお寺に「列」(序列を付ける)をなすことはない。

たまには喧嘩しているみたいだけど、後腐れもないみたいだし。

君たちにとって「お寺」は、いつでも(時間)、どこからでも(空間)アクセル可能な「広場」なんだろうな。

そう…、人間世界にそんな「広場」はあるのだろうか?

人間世界の原理は、いつも、列や順番を競ってばかりいる窮屈な時空なのではないか。

君たちへの、新年のあいさつは、「ネコ居まして、おめでとう」だった。

今日も君たちは自由だ。

でも、くれぐれも車には気を付けてね。

猫の相談員さんとのさりげない会話で、今年も始まった。

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