後生の一大事とは

一般に人物評価をする場合、私たちは無意識のうちに大きく「知者」と「愚者」とに分けて見ることがあります。この場合、知者というのは世渡りの上手な人のことを意味します。そういう人は学問ができ、知識が豊富で、判断力にすぐれ、社会的にも活躍していたりします。それに対して、愚者とみなされる人は、世渡りが下手な人のことです。どちらかというと学問が不得手で、知識も乏しく、判断力に劣り、何をさせても失敗続きというのがその典型です。

ところが、本願寺八世・蓮如上人の書かれたものを読むと、仏教ではそのような視点から知者(智慧者)と愚者とを分けないことが知られます。たとえ仏教について深く学び、多くの知識を持っていたとしても、その人が永遠の命の問題を問いとしていなければ、それは愚者だといわれます。一方、仏教の深遠な道理を全く知らなくても、さらに文字を一字も読むことができなくても、必ず仏になるべき後世の自分の姿を知り、喜びの人生を送っているものは、まさしく智慧者だといわれます。社会的評価で考えると、智慧者と愚者とは反対のように思えるのですが、親鸞聖人の求道を窺うと、蓮如上人の説かれる意味をよく理解することができます。

親鸞聖人は9歳で出家されてから20年の間、比叡山で学問や修行に励まれたのですが、そのあり方を断念して山を下り、六角堂に参籠した後、法然上人のもとに入門されます。その理由が、親鸞聖人の妻である恵信尼さまが書かれた手紙の中に「後世をいのりて」と述べられています。親鸞聖人の比叡山における求道の最大の関心事は「後世」の問題でした。親鸞聖人は「後世」の問題を解決するために一心に学問・修行に励まれたのですが、真摯に取り組まれたにもかかわらず、どうしてもその問題が根本的に解決されることはなく、ついには山での修行を断念されることになったのです。

では、親鸞聖人が課題とされた「後世」の問題とはどのようなことだったのでしょうか。「後世」とはまさしく後の世のことですから、言い換えると死後の世のということになります。そうすると、親鸞聖人は比叡山において死後の不安についての問題を解決することができなかったということになりますが、ここで注意しなければならないのは、一般に私たちが漠然と感じている死後に対する不安とは、少し意味を異にしているということです。

私たちの死後に対する不安は、死後の世界を見ることはできませんので、「死んだら自分はどうなってしまうだろうか」というような、見えない世界やそこでの自分の姿に対する漠然とした畏れです。けれども、親鸞聖人は未来の自分の姿については、はっきりと見えておられたので、そういうことは特に問題ではありませんでした。なぜなら、仏道者にとっての未来は、二つの道しかないからです。一つは悟りに至る道であり、いま一つは永遠に迷い続ける道です。

そうすると、私が今ここにこうして存在しているということは、無限の過去世から迷いの世界を流転し、苦しみのみを味わい続けてきたということになります。けれども、親鸞聖人は幸いにもこの世において仏法に出会う縁を得ることによって、その流転を断ち切る方法を教えられたのです。そこで、親鸞聖人は比叡山において一心に念仏を称えて往生を願われたのですが、懸命の努力にもかかわらず往生の確証を得ることができませんでした。そのため、後世も再び流転を繰り返すしかないことを知り、大いに悩まれたのです。その結果、山を下りて法然聖人のもとに入門され、やがて必ず浄土に生まれて仏になるという確証を得られることになります。それは、後世の問題の解決を意味します。

私たちの人生は、しばしば旅をすることにたとえられます。誰もが、気が付けば既に人生という旅の途上にあるのですが、「あなたのいのちは、どこに向かって歩みを進めておられるのですか」「あなたのいのちは、どこに帰ってゆくのですか」と尋ねられて戸惑ったり、返答に窮したりするようでは、「それはまるで帰る家のない放浪の旅のような人生ですね」と言われかねません。そして、いのちの帰っていく世界を見いだせない人生には、いつも不安の影が落ちてきます。病気をすると「死ぬのではないか」と不安になったり、うまくいかないことが続くと「先祖の誰かが迷っているのではないか」「何かの霊に憑りつかれているのではないか」と怯えたりするあり方です。

このことを蓮如上人は「後生の一大事」という言葉で言い表しておられますが、その問いかけは現代的な表現をすると「今のままで死ねますか」といったところでしょうか。私たちは、生まれた以上致死率は100%です。けれども、いつ死ぬか分かりません。まだずっと先かもしれませんが、今夜かもしれません。

仏教者にとっての未来は、悟りに至るか、再び迷いを繰り返すかの二択です。智慧者とは、このことを知り、本願を信じ念仏を申して仏となってゆく者のことを言い、愚者とはどれだけ学問を積み知識を増やしても、このことを知らないままに流転を繰り返す者のことを言います。今、念仏の教えに出遇っている人は、生まれ難い人間に生まれ、遇い難い仏法に出遇い、聞き難い念仏の教えを聞いているということになりますが、教えを聞くといってもいったい何について聞くのかと言うと、それは「後世」についてだといえます。

 

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