鎌倉時代への興味

今年のNHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。「鎌倉殿」とは鎌倉幕府の将軍のことをさしますが、この物語では第二代将軍・源頼家が該当します。「13人」とは、頼朝が亡くなった(1199年)後、第二代将軍・源頼家のもとで、合議制による政治を行った人たちのことです。周知の通り、歴代の大河ドラマではいろいろな時代が取り上げられていますが、今回は鎌倉時代です。鎌倉時代については、終わったのは鎌倉幕府が滅んだ1333年で一致しているのですが、いつから始まったのかというと、どこに重きを置くかで諸説あります。

  • 1183年 東国支配権利の承認を得る
  • 1185年 平氏が壇の浦に滅び、頼朝は守護・地頭の任命権を勅許される
  • 1190年 頼朝が朝廷によって日本国総追捕使・総地頭の地位を確認される
  • 1192年 源頼朝が征夷大将軍に任命される

学校で歴史の授業を受けている頃は「いい国つくろう鎌倉幕府」といった語呂合わせで、「鎌倉幕府の成立は1192年」と覚えた記憶があるのですが、現在ではこれらの諸説のほか、

  • 1221年 承久の乱の戦後処理が終わる

という説もあります。鎌倉幕府は東国を中心として諸国に守護・地頭を設置し、警察権を掌握していたものの、西国への支配は未だ十分ではなく、依然として朝廷の力強かったため、幕府と朝廷との二元政治の状態にありました。承久の乱で朝廷側が破れ、乱後、朝廷は幕府に完全に従属するようになったことから、武家政権の確立はこれ以降だとする見方です。

鎌倉時代の始期がいずれであるにせよ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が生きられたのは、平安末期(1173年)から鎌倉中期(1263年)までですから、ちょうどこの物語の時代と重なります。ちなみに、親鸞聖人は法然聖人の門下に入り念仏の教えを学んでおられた最中の1207年、「承元の法難」に遭われ、越後に流罪に処せられます。それを命じたのが、承久の乱の首謀者で、後に第3代執権となる北条泰時によって隠岐島に流罪に処せられた後鳥羽上皇です。

さて、「鎌倉殿の13人」に話を戻すと、1199年正月13日、初代将軍・源頼朝が急逝し、頼朝と政子の子、18歳の源頼家が跡を継いで二代将軍に就きます。このとき、源頼家を補佐したり、その専制を抑えたりすることを目的に有力御家人13人による集団指導体制、いわゆる「13人の合議制」が発足しました。

この13人による合議制が今回のタイトルになっている「鎌倉殿の13人」ということになるのですが、この有力御家人達が全員同じ考えを持ち協力し合っていたのかというと、必ずしもそうではありませんでした。この集団指導体制は、源頼朝が亡くなって間もない4月から発足したのですが、早くも同年には梶原景時が失脚し、翌年には安達盛長と三浦義澄が病死したことで合議制は解体してしまいました。そして、最終的には、この物語の主人公である第2代執権の北条義時が他の御家人を排除して北条氏による幕府の支配を確立していくことになります。義時が亡くなったのは1224年ですから、今回のドラマでは北条義時が主人公なので、おそらくこの当たりのことまでが描かれることになるのだと思われます。

今回、この物語に登場する歴史上の有名な人物は、これまでと少し違う視点から描かれているので、毎週とても興味深く視聴しています。

まずは、源頼朝。言わずと知れた鎌倉幕府の初代将軍で、大政奉還(1867年)までの約700年に渡る武家政権を確立した人物です。これまでは、「冷静沈着で自分の意思を貫く政治家」というイメージがありました。また、弟・義経に対する対処の仕方見られるように、自分の目的を達成するためには身内であっても容赦なく処断するといったことから、冷酷で近寄りがたい雰囲気を持つ人物像が一般的であったように思われます。

けれども、今回のドラマで描かれている頼朝は、これまでの頼朝像のイメージを大きく覆すものです。

次に、源義経。頼朝の異母弟で、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となりました。ところが、その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、鎌倉からの圧力に屈した藤原泰衡に攻められ、衣川館で自刃して果てます。その最期が世上多くの人の同情を引き、判官贔屓という言葉を始め、多くの伝説を生みました。そのため、源義経といえば天才的戦術に優れた悲劇の武将というのが一般的なイメージでした。今回の義経は、頼朝同様これまでのイメージとかなり違い、戦術については天才的な面が見られるものの、無邪気で奔放で、そのためやがて頼朝の怒りを買うのも止む無しと思われるような相が垣間見られます。

さらに、頼朝を担ぎ上げることで、坂東の地に武士の社会を築こうとする武士たちの心情もきちんと描かれていて、どのようにして鎌倉に幕府が成立し、さらに源氏が頼朝・頼家・実朝の三代で途絶えても、依然として幕府が続いていったのかということが分かるような気がします。

この物語に親鸞聖人が登場されるわけではありませんが、親鸞聖人は1211年、流罪が赦されると越後から京都には戻られず関東を目ざれます。そして稲田(現在の茨城県笠間市)に草庵を結ばれ布教をされました。ちょうど、この大河ドラマが終わる頃にはなりますが、親鸞聖人が生きられた時代とは、どのような時代だったのか、その時代の雰囲気というものを今年の大河ドラマを通じて、少しでも味わえるのではないかという気がしています。

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