ここで闇と光の関係が問題になります。
暗黒の深海に生きる魚の目は退化しているといわれています。
光がありませんから、目を必要としないのです。
この場合、そこに生きる魚は、自分の場が闇だとは知り得ません。
光があるから闇があるのであり、闇があるから光があるのです。
照らす光によって、闇の存在が明らかになるのです。
人間の生き方もそうであって、真実の善が示されることによって、初めて不実なる自分というものが顕かになります。
毎日忙しく働いている。
そのような時、ほんの少し風邪を引いて仕事を休んだとします。
このような場合、風邪はむしろ恵みであって、二、三日身体を休めることによって体力が回復し、再び元気よく働けるようになります。
このような風邪であれば、早く治りたいとは強く思いません。
治りたいと思う前に治ってしまうからです。
けれども、もし「ほんの少しの風邪」と思っていたのに、それが十日たっても一月たっても治らない場合はどうでしょうか。
そうなると、これはもう必死になって、早く治りたいと思うはずです。
また、それがさらに悪化して、不治の病だと知らされればどうでしょうか。
この時にこそ、心から一心に「何としても治りたい」と願うことになると思います。
さて、私たちは仏教を学ぶことによって、煩悩に迷う原因を教えられ、同時にその迷いを断ち切る道が明かされます。
真実の善行を知らされ、清らかな心を作るべき実践が求められます。
そうすると、そこには二つの結果が導かれます。
第一の果は、その行道によって迷いが破れ悟りの智慧が開かれる場であり、第二の果は、逆にどれほど真剣に仏道を行じても悟りが得られず、どこまでも迷い続ける場です。
第一は仏・菩薩の心であって、この心の特徴は、真実の智慧の目を持つということです。
そしてその智慧の目によって、真の意味で不実に迷う衆生の存在を知り、その衆生を救う慈悲の実践がその時から始まることになります。
第二は愚かな凡夫の心です。
ただしこの凡愚もまた、仏の教えを学ぶことによって、初めて自分は現に迷う存在であり、永遠に迷い続けねばならない自分の姿を知ることになります。
けれども、同時に迷える自己を知るが故に、この私を救う仏・菩薩の大慈悲をも知ることになるのです。
では、仏の智慧と凡愚の迷いは、どのように関係するのでしょうか。
仏の智慧が完全であり、無限に輝けば輝くほど、完全なる闇、無限の暗闇に迷い続ける衆生を照らし続け、また全く真実がなく、完全なる悪のために無限の暗闇を迷い続けることを知る衆生であればあるほど、この自分を照らし救う完全なる仏の無限の慈悲を信知することになります。
このことを『正信念仏偈』には次のように讃えられています。
「信心を喜ぶ衆生はその時、仏の摂取の心光に照護されている。
ただしその光が、すでによく無明の闇を破しているとしても、凡愚の心は、迷いの貪愛瞋憎(とんないしんぞう)の雲霧によって、なお常に仏の大悲の光を覆ってしまっている。
したがって凡愚の心は光そのものにならず、仏の輝き照らす光も直接見ることはできない。
けれども、たとえば、日光はどんなに厚い雲霧に覆われていても、天上ではその雲霧を問題にせず光輝いている。
そのように、どのように醜い貪愛瞋憎の雲霧が私の心を覆っていても、その雲霧の下には、仏の真実の信心が燦然(さんぜん)と輝いている。
それ故に私の心は、いまだ闇のような暗さでありながら、照らす光を持つが故に、もはや明らかであって闇ではない」