「念仏の声が聞かれなくなってきたこと」の原因は、ヨーロッパ型の教育による影響だけではなく、近代思想の流れを受けて、それに応えようとしている教学そのもののあり方にも見られます。
端的には、現代教学では念仏の意味についてあまり語られることはなく、教えの中心はどこまでも「信心」に置かれています。
したがって、念仏について話されることはほとんどなく、真実信心のことばかりが説かれるのですから、自然と人々の口から念仏が出なくなってしまうのです。
また「信心」が語られるということは、私たちの「心」が問題になるということです。
心が問題になるということになれば、その教学は必然的に「人間的な生き方」が中心課題になります。
具体的には、この世の中をいかによく生きるか。
あるいは、信心を通していかに自分の心を清らかにするか、ということが関心事となります。
その結果、信心によってこそ「同朋の心」は成り立つのであって、信心による純粋な生き方とは何かを問うことが、現代社会の抱える様々な事象と重ねて論じられることになります。
阿弥陀仏と私の関係をこのように信心の中でのみ問いますと、現代を生きる人々にとっては、取り上げられている社会事象が具体的であるために、その教えをよく理解することができるかのように感じられるのです。
けれども、このように「信心を中心に現代を生きる」というような視点から教義が構築されてしまいますと、当然のことながら「念仏の喜び」については自然に語られなくなっていきます。
ここに念仏の声が聞かれなくなっているいま一つの理由があるように窺われます。