欲望に満ちた幸福な姿が、永遠に破れないという教えは仏教ではありません。
そうしますと、仏教でない事柄を親鸞聖人が求められるということはありません。
したがって、親鸞聖人は念仏を称えることによって、世俗的な幸福が満たされるとはおっしゃいません。
ところが、私たちは「念仏を称えれば幸福になる」という教えならよく分かるのですが、無常とか無我を根底にしている念仏の教えは、実際のところよく分からないのです。
けれども、自我を中心とする欲望の求めは、実は「悪」なのだということが分かった時、私たちはここで初めて仏教者として、真の意味で「善を好む者」になるのです。
エゴを破った、善を好む者としての念仏者がここに生まれることになるのだといえます。
ところが、その時に何が明らかになるかというと、まさしく真に「善」を求めようとするその時に、仏道を真剣に求めようとしながら、しかもやはり自分が欲し求めていることは世俗の欲望でしかない、迷いの側に属するものばかりを求めている、そのような自分の姿が露になってきます。
この真実の「善」を求め、しかも悪のみしかなしえないという自覚が、ここで親鸞聖人いわれる「悪人」ということです。
したがって、親鸞聖人の言われる「悪人」あるいは「悪を好み」という思想は、真に仏道を求めることにおいて、そして仏教の道理に立って初めて言えることなのです。
念仏を称える者、念仏者が好む世界は、本来は「無常・無我」の道でなければなりません。
このように善を好む者でなければならないにもかかわらず、仏教の教えに出会い、念仏者でありながら自分が好み求めているものは、世俗の欲望でしかない。
親鸞聖人の言葉で言えば「愛欲と名利」の道のみを歩いているということになるのが、私たちの偽らざる姿だということになります。