「親鸞聖人の他力思想」2月(後期)

次は、親鸞聖人のお手紙です。

今までの内容が、お手紙で説明されることになります。

浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり自力あり。

(中略)まづ自力と申すことは、行者おのおのの縁にしたがひて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからひのこころをもて、身口意のみだれごころをつくろい、めでたうなして浄土へ往生せむとおもふを自力と申すなり。

また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひの中に、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。

(『末燈鈔』)

この文では、自力の意味はよくわかります。

自分の力でいろいろな行をし、自分の心であれこれ考えて、自分の力で往生しようとする行為が度力だからです。

それに対して、

「他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひの中に、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり」

と述べられますが、自力が明確に述べられているのに対して、他力とはどういうことであるかすぐに理解することは容易ではありません。

この他力の意味は、阿弥陀仏が本願に

「一切の衆生を救う」

という誓いを建てておられる。

その本願に誓われている阿弥陀仏の力を衆生が信楽すること、つまり阿弥陀仏の力を信じることが、他力だといわれているのです。

そうしますと、

「他力本願を信じること」

が他力になります。

それはどのようなことかといいますと、自分が本願とかかわることを除いて、他力ということを論じても無意味だということです。

 自力とは、自分で一生懸命に行をして仏になることです。

一方、他力とは、もともとは阿弥陀仏が一切の衆生を救おうとしておられる本願力のことですから、その救おうとしておられる本願の自分が帰命すること、その本願を信じて、本願力に乗じることが、また他力になると述べておられるのです。