このときなぜ、
「十念」
に
「乃至」
の言葉がそえて誓われているのでしょうか。
阿弥陀仏が衆生に対して、
「もし一心に念仏を称えるものを救う」
と誓っていれば、衆生は必ずはからいの心を持ちます。
その念仏は何回称えればよいのか。
一声でよいのか、多声でなければならないのか。
十分に修行を積んだものが救われるのか。
それとも愚かなものが、ほんの少し念仏を称えるだけでも救われるのか。
さらには、いつ、どのような場所で、どのような心持ちで称えればよいかなどと、いろいろなことを迷い悩んでしまいます。
それ故に、
「乃至」
という阿弥陀仏の法が
「十念」
という名号にそえて誓われているのは、まさにそのような衆生のはからいの一切を否定するためだと、親鸞聖人はみられます。
そして善導大師によって説かれている第十八願の文を
『教行信証』
で、
「わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じてはもし生まれずば正覚を取らじと。
これ即ちこれ往生を願ずる行人、命終わらむと欲する時、願力摂して往生を得しむ」
と読まれ、さらにその本願の意を
「弥陀の本弘誓は、名号を称すること、下至十声聞等に及ぶまで、定で往生を得しむ」
と解釈されます。
そしてこの
「称我名字」
については、
『尊号真像銘文』で、
「われ仏になれらむに、わがなをとなへられむとなり」
と説明されます。
これよりみれば第十八願の
「十念」
は、衆生が称える十声の称名でありながら、その南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏が衆生に
「称えよ」
と願われ、称えせしめ、称える衆生を願力に乗じて弥陀の浄土に往生せしめている、阿弥陀仏のはたらき、すなわち大願業力であり、大行であることは動かしえません。
この点を親鸞聖人は、『末灯鈔』で
「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたる」
と説かれます。
そうすると、大十八願の選択本願の意は
「ただ念仏せよ、あなたを救う」
という一言に集約されてしまいます。
この
「乃至十念」
が、法然聖人によって明らかにされた念仏往生の道です。
ところで大十八願には
「乃至十念」
のみが誓われているのではありません。
「至心信楽欲生」
の三心もまた本願の誓いです。
では、その三心と十念はどのように関係するのでしょうか。
親鸞聖人の思想において、
「十念」
は阿弥陀仏の言葉でした。
とすれば、
「三心」
もまた当然、阿弥陀仏の心だと解されます。
この十念については、すでに述べたように、
『教行信証』
では、親鸞聖人自身の言葉による解釈はみられません。
けれども、三心に関しては、親鸞聖人自身その心の根源を、非常に深く論述され、浄土真宗の信心の根本が明かされます。