「念仏の教えと現代」2月(中期)

では、なぜ人間は

「善」

をなさなくてはならないのでしょうす。

それは、人間は一人では生きていけないからです。

仲間と共に生きるためには、自分勝手な行動は許されません。

そこで、善行が求められることになるのですが、ただそれだけではありません。

これは、自分達の日常の生活を考えればよいのですが、日常生活の中で、一番気持ちのよい時はどのような時かと言えば、おそらくそれはお互いが他のために、一心によいことをしている時ではないでしょうか。

人間にとって、最高の生きがいは、よいことを積み重ねていくことの中にあるといえます。

誰でも、自分の心の中には、必ずよいことをしたい、よい生活をしたい、人のために尽くしたいといった、善行に励む心を基本的に持っているといえます。

よいことをしたいという心を根底に持って、人生を過ごしているといってもいいと思われます。

そして、極めて積極的に、その善い行いをせよと説いているのが仏教だといえます。

ところが、それが人間の心だとすると、ここに大きな矛盾が生じます。

「お互いがよい行いをし、よい行いをすることの中で喜びを感じ、生きがいを見出している」

そういう人間が集まって私たちは社会を作っているはずなのですが、そこでいったい何をしているかというと、常に争いを繰り返しています。

これはなぜなのでしょうか。

私たちは、なぜよい行いをすることに喜びを感じながら、にもかかわらず争い、お互いが傷つけあって生きなくてはならないのでしょうか。

ここで、私たちは自分が行っている

「善」

そのものを見つめ直す必要に迫られます。

私たちは確かによい行いに励んでいるのですが、よく見ると、その善の中心に常に自分を置いて、自分にとって都合のよい行為を

「善」

と錯覚しているのです。

いわば、自己中心的な善が行われていることになるのです。

例えば、自分を中心に円を描いてみると、自分に一番近いのが子どもや親などの家族です。

そして、円の中心が少し広げられて、兄弟姉妹や仲間がいます。

そういう中で、お互いがよい行いをしようとすることは可能です。

ただし、最も親しい夫婦の仲であるとか、親子の仲であっても、もし自分のよいと思っている心が相手に拒絶されたような場合は、これは決定的に腹をたててしまうことになります。

ここに争いの原因が見られるのですが、仏教で善をなせというその善は、争いの原因になるような、自分勝手な善をなせといわれている訳ではありません。