親鸞聖人は、平氏政権が最盛期を迎えつつある永安三年(一一七三)、京都郊外の日野にお生まれになりました。
父は皇太后大進(だいしん)の職にあった中流貴族、日野有範(ありのり)と伝えられています。
源頼政が打倒平氏の兵を挙げ、それに力を得て源頼朝や木曽義仲が決起したのは、親鸞聖人が八歳になられた治承四年(一一八0)のことです。
そして、翌養和元年の春、親鸞聖人は九歳にして青蓮院で出家剃髪し、慈円に師事されることになります。
この養和元年という年は、全国規模での大凶作、大飢饉が起こり、源平争乱の軍事行動も一時的に停止されたほどでした。
大飢饉は地方のみならず、京都をも直撃し、洛中に死体が充満して生き地獄のような状況を呈したことが
「方丈記」
などに活写されています。
この大飢饉はまた、当然のように末法到来の認識を世間に広め、絶望感をあおる役割を果たすことにもなりました。
それはさておき、中流貴族の子の親鸞聖人が、なぜ九歳にして出家しなければならなかったのでしょうか。
この問題を考えるとき、いささかならず興味深いのは、親鸞聖人の叔父の一人、日野宗業(むねなり)が以仁王の学問の師だったという所伝であることです。
また、親鸞聖人の祖母は、源氏の出身であったともいわれます。
それから推すと、以仁王・源頼朝が反平氏の企てに失敗した結果、日野氏も一時的に逼塞を余儀なくされ、幼い親鸞聖人を仏門に託すことになったのではないか、という可能性が考えられます。
もしそうだとすると、平安末の乱世は、親鸞聖人の出家とも密接に関わっていたことになります。
ともあれ、親鸞聖人はこうして俗世間を出離し、鎌倉新仏教の一巨峰を形成していかれることになります。
さらに親鸞聖人に続いてそれぞれ特徴のある教義を樹立された道元禅師、日蓮上人も後世に与えた影響は大なるものがあり、この三人はさしずめ鎌倉新仏教の三大巨峰と称することができると思われます。