道元禅師は、このような大乗仏教の中心思想が内包する矛盾に目覚め、そこから独自の末法の途につかれた訳ですが、そのとき禅師が疑念解決の方法論として重視されたのは
「仏法の伝わり方」
でした。
そのことについて、禅師は次のように語られます。
「仏々かならず仏々に嗣法し、祖々かならず祖々に嗣法す。
これ証戒なり、これ単伝なり。
この故に、無上菩提なり
(=仏の悟りは、同じ悟りを体得した人々によって現代まで受け継がれてきた)」
道元禅師は、釈尊に発して現代に連なる
「無上菩提」
の悟りを得た人々。
つまり
「仏」
の縦の系譜(単伝)を想定しておられる訳です。
言い換えるなら、釈尊がはじめられた正法(しょうぼう)は、
「仏」が
「仏」
に授けることによって連綿と伝えられてきた、ということです。
したがって、僧侶たる者が正法を修めたいと欲するからには、必ず正師と巡り合って面授(めんじゅ)を受けなければならない、という論理が成立します。
そこで、道元禅師は正師を求めて各地を遍歴されました。
ところが、質問に納得のいく回答を与えてくれるだけの人物はついに現れず、道元禅師は失望のあまり、実に大胆な認識の転回を行い、次のように述べられます。
「此の国の大師等は土瓦(つちがわら)の如くにおぼへて、従来の身心(しんじん)皆あらためき(=わが国の高僧がみな土瓦のように見えてきて、すっかり迷いから覚めた)」
これは、従来の仏教に対する道元禅師の訣別宣言と言ってよく、以後道元禅師は仏教の本場中国に熱い憧憬を寄せられるようになります。
そして、ついに中国に赴かれ、天童景徳禅寺(天童山)の住持如浄(にょじょう)禅師のうちに正師を見出して、日頃の疑念を解かれたのでした。
その後、五年に及ぶ修行を終え、日本に帰国されます。
後年、中国で体得されたことを
「眼横鼻直」
「空手還郷」
という言葉をあらわされ、
「ありまままの姿がそのまま仏法であり、日々の修行がそのまま悟りである」
と示されました。
なお帰国後直ちに、座禅の心がまえや作法などについて書かれた
「普勧座禅儀(ふかんざぜんぎ)」
を著され、その後
「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」
の最初の巻である
「弁道話」
を著しておられます。