「親鸞聖人が生きた時代」9月(後期)

一方、道元禅師は中国天童山の如浄禅師から法を授けられて帰国された時、

「自分は仏法そのものになって帰って来た。

真の仏法、正法はいま自分の帰国によって初めて日本にもたらされた」

と自信満々に語っておられます。

さらに後年、越前山中に一寺を開いて永平寺と命名された当日、永平寺の建立を釈尊の降誕になぞらえて誇らしく宣言しておられます。

また日蓮上人も自信にかけては道元禅師に劣らず、自分のことを

「日本国の棟梁」

とか

「日本第一の法華経の行者」

と称されたことは史上有名です。

その自信のもとに、鎌倉幕府を相手取り

「自説を用いなければ日本は滅びるであろう」

と真っ向から諫暁・折伏を展開し、一方で

「念仏無間、禅天魔・真言亡国・律国賊」

と仮借ない他宗批判を実行されました。

日蓮上人のそのような意識は、佐渡流罪を体験したのちいっそうの高まりを見せ、ついには法華経の信仰において大先輩の中国の天台大師智?(ちぎ)、伝教大師最澄をも凌駕したとの確信を持つに至られます。

それに対して、親鸞聖人はひと言もそういうことは語られません。

ただ

「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」

とおっしゃり、本願念仏の教えに生きる人々はすべて

「御同朋・御同行」

であると、

「御」

の字を冠して、自身を師匠と慕う方々に

「おつかえなさった」

とまで伝えられています。

したがって、親鸞聖人は布教には努められたものの、一宗の立教開宗や自らが教団を組織するというようなことは、ご自身では全くお考えになりませんでした。

したがって、親鸞聖人の教えが

「浄土真宗」

と呼ばれ、本願寺派などの真宗系教団が形成されるのは、その死後のことになります。

たしかに親鸞聖人は

「選択本願は浄土真宗なり」

というように、浄土真宗の語句は用いておられますが、それはすべて師法然聖人の浄土宗のことを意味しており、親鸞聖人自身の教えを指してのものではありません。

親鸞聖人は、実践という法然聖人の成し得なかった業(わざ)をもって法然聖人の教えを徹底させ、そこにおのずから独自の宗教世界を構築されましたが、親鸞聖人の内面においてその成果はほとんど自覚されず、すべての営みが法然聖人と二重写しに受け止めておられたようです。