親鸞聖人における「真俗二諦」4月(中期)

では、存覚上人はどうでしょうか。

存覚上人においては、

『破邪顕正抄』

の第十項

「仏法を破壊し、王法を忽諸するよしの事」

が問題になっています。

「仏法と王法は一隻の法なり」

という。

鳥の二つの翼のごとくあり、車の二つの輪のごとくであって、これらは一つが欠けると用をなさなくなるのである。

仏法と王法の関係はまさしくそうであって、仏法をもって王法をまもり、王法をもって仏法をあがめるのである。

ここに理想の国家があるのであって、上代から今日まで、我国の天皇も仏法者も、そうすべく努力してきたのである。

そこには例外はないのであって、聖道の行者も浄土の念仏者もそのようにして、天下の安穏を願ってきたのである。

とすれば私たち一向専念の真宗教徒のみが、どうして世俗の生活の根本理念を忘れ去ってよいことがあろうか。

そのようなことは、決してあってはならない。

存覚上人の文章は、このように解釈することが出来ます。

真俗二諦論では、この部分が問題ありとして指摘されているのですが、存覚上人がこの書の中で述べようとしておられる意図は、この箇所にあるのではありません。

次の部分に、存覚上人の主張の要点があるのです。

今その大意を示せば、次の通りです。

我々一向専念のともがらは、火宅無常の世にあって、曠劫より無限の苦悩を受けてきたのであるが、今この日本国に生まれ、幸いにも阿弥陀仏の仏法に出遇うことができたのである。

このものがどうして皇恩を忘れ、あだにすることがありえようか。

ところで我々念仏者は、この易行によってしか仏果に至りえないので、念仏一行を修し西方の往生を願っているのである。

この行がなぜ、王法に背き、仏法を破ることになるのか。

ところが、国家は理不尽にも、念仏者の真の姿、その求道の心をまったく見ないで、頭から一向専念の輩は仏法を破滅し、王法を軽んずる者だとして、眼に余る迫害を加えている。

これはもってのほかだといわねばならない。

以上が後半に見る存覚上人の主張です。

前半の部分においても、仏教が意味する

「真俗二諦」

の思想に重なるものではありませんが、全体的に見て仏教の真俗二諦がなぜここで問題になるのか、それは存覚上人の知らざるところだというべきではないでしょうか。

その意図するところを重視しないで、一部分だけを取り上げて批判する態度は厳に慎むべきかと思われます。