「教行信証」の行と信(6月後期)

2.阿弥陀仏とその浄土

このように南無阿弥陀仏を捉えますと、名号はまさしく浄土そのものということになります。

南無阿弥陀仏が仏そのものであり、浄土そのものなのです。

では、その光明無量・寿命無量という名号と、私はどのように関係するのでしょうか。

この点が、浄土真宗では最も重要になります。

それは、私と名号がどのように関係し合うかということなのですが、ここからが

『教行信証』の

「行」と

「信」

の問題になります。

さて、最初に真如が一切の衆生を救うために、まず真如が動きます。

その真如からあらわれた

「かたち」

が法蔵菩薩となのられ、本願を立てて成就し、阿弥陀仏となられたのです。

真如が法蔵菩薩となのり一切の行を完成して阿弥陀仏になられたということは、ここに南無阿弥陀仏という名号が完成したことを意味します。

そして南無阿弥陀仏が成就したということは、一切の衆生を救うための一切の功徳が名号の中におさまっていることになります。

けれども、このままであれば阿弥陀仏の側で、南無阿弥陀仏が成就されたというだけのことです。

そこで真如は、一切の衆生を救うために南無阿弥陀仏という名号になったのです。

けれども、この時点ではその名号と凡夫は未だ無関係です。

なぜなら、真如から発せられる言葉は、私たち凡夫には聞こえてはこないからです。

そのため、私たちの周囲には阿弥陀仏の光が満ち満ちているのですが、私たちは誰一人としてその阿弥陀仏の光にふれることはできません。

また、見ることもその音声を聞くこともできないのです、したがって、たとえ阿弥陀仏が真如から生まれたとしても、そのままであれば、凡夫には何ら関係のない仏のままです。

この故に、阿弥陀仏は一切の衆生を救うという本願に、まず

「南無阿弥陀仏」

を衆生に知らしめる手段を本願に誓われなくてはなりません。

そこで、凡夫を救う言葉が真如からどのようにして凡夫の耳に聞こえるかが問題になるのです。

この唯一の方法が、阿弥陀仏に対する諸仏の選びになります。

つまり、諸仏国土の仏が、阿弥陀仏を選ぶのです。

なぜなら、私たちは阿弥陀仏の言葉を直ちに聞くことは出来ませんが仏であれば聞くことが出来るからです。

人間世界においては、釈迦仏のみが阿弥陀仏の言葉を聞くことが出来ます。

それは、釈迦仏と阿弥陀仏は、同一の仏と仏だからです。

また、釈迦仏と私たちは、同じ人間世界に住んでいるので、釈迦仏の言葉であれば、たとえ凡夫であっても阿弥陀仏の言葉を耳にすることが出来ます。

だからこそ、阿弥陀仏は本願の名号によって衆生を救うはたらきを成就され、その名号の功徳を諸仏を通してその国土の衆生に伝えるという本願を成就されたのです。

それが、第十七願の内実です。

第十七願には、阿弥陀仏が自らの法を諸仏を通して伝えると誓われています。

だからこそ、諸仏は

「南無阿弥陀仏」

と称え、その功徳の素晴らしさを讃嘆し、念仏を称えて弥陀に救われよと、国土の人々に説法されるのです。

このことを踏まえて、第十七願の誓いに見られる諸仏の行為を親鸞聖人は

「浄土真実の行」

だと見られたのです。

ところで、この第十七願は、諸仏が阿弥陀仏の

「教え」

を説いているすがたです。

それをもし

「行」

と捉えるのだとすると、教と行はどのように関係するのでしょうか。

『教行信証』は、

「行」

の前に

「教」

が置かれているのですが、ではその教とは何かがここで問題になります。