「教行信証」の行と信(6月中期)

2.阿弥陀仏とその浄土

 ここで非常に重要なことは、光明に対する理解の仕方です。

常識的に光明というものを考える場合、私たちにとって最大の光は太陽ということになります。

この太陽の光によって地球の全体、私たち生きもののすべてが生かされています。

そうすると、私たちは阿弥陀仏の浄土もこの太陽に重ねて理解しようとすることになります。

すなわち、浄土とは太陽をはるかに超えた無限に光り輝く根源が西方の十万億土にあって、そこから光が来て私たちを照らし摂取しておられると考えてしまうのです。

ところが、親鸞聖人のお考えはそうではありません。

光を放つ根源をある一つの場所とか方向には見られないのです。

浄土は、光明が無量であり、寿命が無量なのです。

そこで、いま無限の場を頭に描き、その全体が光り輝いているといったような光景を思い浮かべると、その浄土は太陽の光のように一つの場所から光を放っているのではなく、無限に輝く光の場であって、その光で常に私たちを包んでいると言えます。

つまり、中心に一つの光輝く根源があって、そこから光が放たれているのではなくて、その光で常に私たちの全体を包んでいるのです。

いわば、この宇宙の全体が光明無量・寿命無量というかたちで、時間的にも空間的にも無限に広がる宇宙の全体がこの光で覆われ、その光によって一切の衆生を救い続けている。

その仏が、阿弥陀仏であると見られるのです。

これはいわば、真如のはたらきそのものだということになります。

では、その真如がなぜ阿弥陀仏なのかが、ここで問題になりますが、その説明は

「自然法爾(じねんほうに)章」

でなされています。

このお手紙の中で、親鸞聖人は

「弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり」

と述べておられます。

お手紙の流れは、阿弥陀仏の願いはただ一つであって、迷っている一人一人の衆生の一切を、無上仏にせしめることだと示されます。

親鸞聖人は、私たち一人一人を、すべて無上仏にせしめようとはたらいているのが、阿弥陀仏の大悲だと捉えられるのです。

それが、

「自然」

つまりおのずからしからしめるという法の道理なのです。

では、私は無上仏に成らしめられるということですが、その無上仏とはどのような仏なのでしょうか。

無上仏とは、真如そのものを意味しています。

そこで、一人一人を真如に導くために、阿弥陀仏の大悲がはたらいているのです。

では、阿弥陀仏の大悲と何でしょうか。

無上仏とは、いろもなくかたちもましましません。

そうすると、そのいろもなくかたちもない無上仏が、この凡夫を導くためには、真如そのものが凡夫の目にも分かるように

「すがた」

を露さなくてはなりません。

それが阿弥陀仏なのです。

私たち凡夫は、いろもかたちもない真如のままでは、その真如を知ることは出来ません。

そこで真如そのものが私たちを無上仏にするためには、まず

「すがた」

を示さなければならないのです。

けれども、その時もし真如が真如の功徳を変えたとしますと、何もなりません。

真如が真如のままで私の前に相を現すとすれば、無量の光明という相をとらざるをえないのです。

ところが

「無量の光明」

といっても、愚かな凡夫にはその光を見ることは出来ません。

更に無量の光明が愚かな人々にも分かるような

「すがた」

を示さなければならないのです。

その

「すがた」

こそが、南無阿弥陀仏という言葉なのです。

この南無阿弥陀仏という名号は、光明そのものが衆生に分かるように声となったのです。

言い換えると、言葉となったのです。

したがって、南無阿弥陀仏とは、真如そのものが私を救うために、自ら私によびかけてくださっている言葉なのです。

つまり、南無阿弥陀仏とは真如の大悲が私を救うために躍動している姿であり、

「汝を救う」

というはたらきそのものなのです。