3.『教行信証』の構造
さて、ここで『教行信証』の構造が問われます。
『教行信証』は六つの巻から成り立っています。
教と行と信と証と真仏土と化身土です。
この中、教巻と、行・信・証・真仏土・化身土の巻とには一つの大きな違いが見られます。
その違いなのですが、行巻から化身土巻まではすべて願名、すなわちその巻の根拠となる願の名前が示されているのです。
例えば行巻は第十七願です。
したがって、第十七願の内容が行巻で明かされていることになります。
信巻は第十八願、証巻は第十一願になっています。
真仏土巻は第十二・第十三願で、化身土巻は第十九・第二十願だと説かれています。
このように、後の五巻はすべて願名が示されています。
ところが、教巻だけは願がありません。
ただし、願名のかわりに教巻には『大無量寿経』という経典が示されています。
これは、何を意味しているのでしょうか。
先に挙げた第十七願から第二十願まで、行・信・証・真仏土・化身土のすべてが『大無量寿経』の中で説かれています。
そうしますと、この経典は、阿弥陀仏の本願の真理を説いているということを教巻は示しているのだとみることができます。
つまり、親鸞聖人は、教巻で『大無量寿経』はどのような真理を説く経典であるかを示され、この経典の言葉を通して、その教えの真実性を明らかにしておられるのだと見ることができます。
そこで教巻を繙いて『大無量寿経』の引用部分に着目すると、不思議なことにそこには阿弥陀仏の教えを説く箇所は全く引用されていないことに気がつきます。
『大無量寿経』で釈尊は、阿弥陀仏とその浄土を語られるのですが、その教えの部分が
「教巻」
では一言も書かれていないのです。
では、『大無量寿経』のどこの箇所が引用されているのかというと、序分の
「五徳瑞現」
というところです。
五徳瑞現とは、釈尊が今までになく輝いたということが語られている部分です。
釈尊は『大無量寿経』を説こうとされる時、仏弟子の方々が今までに見たこともない輝きの姿を示されます。
そこで、弟子の阿難が次のような質問します。
「仏はいつも仏と語っておられますが、今日の釈尊は今までに見たこともない輝きの中にあります。
いったいどのような仏と語り合っておられるのですか。
おそらくその仏は最高であって、その最も尊く優れた教えを聞いておられるので、そのように輝いておられるのではありませんか。
」
と。
この問いを聞かれて、釈尊は非常に喜ばれて、阿難に
「よき質問だ」
とおほめになり、釈尊の心に廻施されたその阿弥陀仏の教法が、引き続いて語られることになるのです。
その釈尊が輝いておられるという姿を、親鸞聖人はこれこそ今釈尊が最高の法の中にまします証だとされるのです。
最高の仏法である阿弥陀仏の教法が、いま釈尊に廻向されているからこそ、釈尊が輝いておられるのだからです。
ではなぜ、阿弥陀仏は釈尊に阿弥陀仏の法を廻向されたのでしょうか。
それは、決して釈尊を救うためではありません。
釈尊を通して、一切の衆生を救うために、釈尊の心に弥陀の本願を廻向されたのです。
この釈尊の心に一切の衆生を救うという教法が、いま廻向されていることを語っているのが、
「教巻」
の思想になります。
そして、釈尊に廻向された阿弥陀仏の教法が、実際に釈尊の口を通して一声出ます。
具体的には、釈尊が南無阿弥陀仏を称えて、お弟子の方々に
「いま称えている南無阿弥陀仏が弥陀廻向の大行なのだ」
ということを明かにされるのです。
その説法が
「行巻」
の行ということになるのです。
続いてこの行巻と、信巻・証巻とがどう関係し合うかということが説かれていくことになります。