「教行信証」の行と信(7月中期)

4.法体の名号・諸仏の称名・衆生の称名

浄土真宗の教えは、

「真如が阿弥陀仏になった」

ということで言い尽くされているのだと言えます。

それは、真如が一切の衆生を救うために、

「南無阿弥陀仏」

という名号を成就し、阿弥陀仏になったということです。

したがって、阿弥陀仏の救いの法がまさに

「南無阿弥陀仏」

なのであり、その法が今、釈尊の心に廻向されたのです。

そこで、釈尊は

「南無阿弥陀仏」

と一声称え、衆生に阿弥陀仏の救いの法を説法されたのです。

この

「南無阿弥陀仏」

という念仏を通して、阿弥陀仏が一切の衆生を救いたいと願われたのが本願の建立ということです。

それは、法蔵菩薩が本願を成就したということなのですが、ではその本願とは何なのでしょうか。

一言でいうと、それは阿弥陀仏が一切の衆生を救いたいという願いです。

この仏の願いを、親鸞聖人は南無阿弥陀仏の

「南無」

という言葉の中にみられます。

普通名号と言えば、阿弥陀仏の四字を指します。

ですから、法然聖人までは、名号とはあくまでも阿弥陀仏であって、南無は私が弥陀を信じる心を意味していました。

したがって、一般的には南無は私の側にあります。

けれども、親鸞聖人はこの名号を六字で解釈されます。

六字の全てが名号だということになりますと、南無までが阿弥陀仏の側に含まれます。

そうしますと、南無は私の心ではなく、阿弥陀仏が衆生を救いたいという願いになります。

ここに、親鸞聖人独自の六字の解釈が見られます。

つまり、南無阿弥陀仏が衆生を救う法になるのです。

それは、私たち一人ひとりの称える南無阿弥陀仏が、私が阿弥陀仏に救われているすがたになるということです。

この真理は、自分が意識する、意識しないということは関係ありません。

阿弥陀仏が衆生を救うために自ら南無阿弥陀仏になったのですから、南無阿弥陀仏を称えているそこに、阿弥陀仏が私を救うすがたがあるからです。

ただし、この真理は、凡夫自身の力では絶対に知り得ることはできません。

ここに釈尊の説法の意義があり、この法を第十七願に建立・成就された阿弥陀仏の願意が見られます。

教巻には、弥陀の心が釈尊に廻向されているその事態が説かれ、阿弥陀仏の法の中心は本願と名号だと示されていました。

本願は阿弥陀仏の

「衆生を救う」

という願いであり、名号とはその本願の衆生を救っているすがたです。

弥陀の本願が、名号を通して衆生を救っているのです。

したがって、私たちにとっては、名号の中に阿弥陀仏の本願を見ることが重要なのです。

この点が、教巻において親鸞聖人が教えられていることです。

さて、弥陀の名号が釈尊の心に廻向されました。

そこで、釈尊の最初の行為は何かということになります。

それが

「行巻」

の最初の言葉になります。

したがって、

「行巻」

の冒頭の言葉は、釈尊の説法の第一声だと考えればよいと思われます。

つつしんで往相の廻向を案ずるに、大行あり、大信あり。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

これはもちろん、親鸞聖人の言葉ですが、親鸞聖人ご自身はもし釈尊がここらおられたとしたら、おそらくこのような説法が始まるに違いないと意識されているのだと言えます。

それが

「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」

という言葉で、ここに阿弥陀仏の教えの全てが含められます。

この大行とは、往相廻向の大行ということで、阿弥陀仏が私たちを往相せしめるために廻向された大行が、無碍光如来の名を称しているすがたなのです。