ここで、西本願寺においては伝統の宗学が問題になります。
この宗学の中心問題が行信論なのですが、この行信論はまことに複雑です。
なぜ複雑になってしまうのかというと、弥陀から廻向される大行に対して、衆生の信じ方や行じ方をここに重ねてしまうからです。
そのため、ここで大きく三つの解釈が生まれます。
第一は
「無碍光如来の名を称するなり」の
「名」
を重視して、名号こそが大行だと捉える
「法体大行説」
です。
第二は、この無碍光如来の名を称えているのは諸仏ですから、この称名は
「諸仏の称名」
だと捉える立場です。
第三番目は、現実の問題として無碍光如来の名を称しているのは衆生なのですから、
「衆生の称名」
として捉えねばならないとする立場です。
このように伝統の宗学においては、三つの解釈が生まれ、どれが正しい解釈かということが、江戸時代からずっと論じられているという訳です。
そこで、この
「無碍光如来の名を称するなり」
とは何かということになるのですが、宗学ではこの問題にまず蓮如上人の教学を重ねます。
蓮如教学では、称名はあくまでも衆生の側で捉えられ、しかもその称名は真実の信心を得た上での称名でなければならないとされています。
つまり、称名が信心を離れては意味をなさないのです。
そこで、法体大行の場合も、諸仏の称名の場合も、衆生の称名の場合も、すべて衆生の信心との関係において論じられることになります。
そのため、論が複雑になり、しかも解決をみない論争が延々と続くことになってしまうのです。
けれども、論争に結論を見ないということは、論争の焦点があっていないか、あるいは論争そのものが矛盾しているからだと言わざるを得ません。
では、この論争のどこに問題があるのでしょうか。
宗学論争では、この三つの立場のいずれが正しいかを論じるのですが、そうではなく、この三つの称名は、それぞれ何を意味しているかを考えればよいのだと思われます。
まず、第一の法体大行ですが、この称名が阿弥陀仏より廻向されて、私の心に来たっているのだとしますと、それは衆生を救うための弥陀の
「はたらき」
ということになります。
称名とは、弥陀が衆生を救うすがただというのが第一番目の称名です。
それに対しまして、諸仏の称名という場合は、これは釈尊の説法を意味することになります。
説法とは、名号法を伝達するすがたですから、第二番目は、弥陀の教えはどのようにして伝わるかを明らかにしていることになります。
第三番目は衆生の称名とは何かということです。
未信の衆生は称名を通して獲信しますから、こちらは獲信の問題になります。
このように見ますと、三者はそれぞれに意味していることの内容が異なります。
第一の称名は阿弥陀仏が衆生を救うはたらきを意味し、第二は釈尊が弥陀の教えを説法するすがたであり、第三は私が信心を頂く場となります。
このように、三者はそれぞれ意味内容を異にしているのです。
にもかかわらず、この称名のどれが正しいかを論じても、これは生産的な論争にはなりません。
したがって、称名についてこのような違う立場から論じ合うのではなく、
「如来の名を称する」
をもし法体大行として解釈するのであれば、この称名にはどのような意義が見られるかを考えればよいのだと言えます。
また、諸仏の称名として捉えるのであれば、この称名にはどのような意味が見られるのでしょうか。
あるいは、衆生の称名であれば、どのように考えるべきなのでしょうか。