次は「私しかない」です。
親鸞聖人のお言葉にある「聖人のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれぱ、ひとへに親鸞一人がためなりけり」。
如来さまのご苦労、我々を救わんとなさるそのお心を問い尋ねたら、親鸞一人のためやとおっしゃる。
これは何も親鸞聖人だけ助けて、後の者がそうじゃないというんじゃないんですよ。
親鸞聖人が我がこととして真っ直ぐ受け止めてらっしゃる。
ということは、お法に遇い、如来の本願に遇うということは聞いた人、その人その人が主体的に自分のこととして受け止める。
ここに仏法聴聞の一番大事な基本姿勢があるんです。
人ごととして聞くんじゃない。
私が直接参加、直接私のこととして受け止めていく。
私を救わんがためにと受け止めるのが一番大事なことなのです。
今日はかけがえのない存在に遇うことによって、このちっぽけなつまらん私もかけがえのない存在に足らしめるということをお話ししました。
他に代わりはないんですよ。
小さくとも、弱かろうとも、そのかけがえのなさは何ものにも代わることができない。
そのかけがえのないことに気づくことが私は仏法聴聞の要だと思います。
そしたら全て周りのものも大事にせずにはおれない生活が始まるのではないでしょうか。