「この身をいただいたということ」(上旬)あぐらをかいて

======ご講師紹介======

藤田徹文さん(広島・光徳寺住職)

☆ 演題「この身をいただいたということ」

ご講師は、広島県・光徳寺住職の藤田徹文さんです。

昭和18年大阪市生まれの藤田さんは、龍谷大学大学院真宗学専攻修了後、基幹運動本部事務部長、浄土真宗本願寺派伝道院部長・主任講師を歴任されました。

現在は、光徳寺住職として、また本願寺派布教使として、全国各地で浄土真宗のみ教えを伝えておられます。

また、著書も

「わたしの信心」

「生まれた時も死ぬ時も」

「聞光力」

「本願力」

「念仏ひとつ」

など多数出版されています。

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今から1400年前、中国の唐の時代の高僧に善導大師という方がいらっしゃいました。

この方が

「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」

とおっしゃっておられます。

「罪悪」

というのは、毎日に日暮らしの中で、いつの間にか

「私が」

という己の我を周りに押しつけるだけが仕事になってしまっているということです。

また

「生死」

とは、迷いのことです。

生と死は、紙の裏表という話ではないのです。

よく生の後には死がついていると聞きますが、仏教ではそんなことはいいません。

ここでいう生死とは、あくまでも迷いのことです。

このことを親鸞聖人は

『正信偈』に

「還来生死輪転家」

と述べておられます。

意訳しますと

「まよいの家にかえらんは」

となります。

「生死輪転」

とは、六道と呼ばれる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という迷いの境涯を行ったり来たりしているということです。

私たちは、人間の姿で生まれたら何をしても人間だと思っていますが、仏教ではそうは言わないのです。

その人の行為によって、その人のいのちのあり方が変わる。

姿形は人間でも、やっていることが違ったら、人間ではないということです。

人間に生まれ、人間であるのならばまあいいのですが、地獄の鬼になったり餓鬼になってみたりする。

これは

「私が」

の我にとらわれているからです。

その私の我の中身は煩悩です。

煩悩について親鸞聖人は、

「身を煩わし、心を悩ます」

とおっしゃっておられます。

私たちの煩悩はどのように出てくるかというと、我が通るというか、順境にあると

「貪り」

という心が出てきます。

仏教は欲が悪いという宗教ではありません。

禁欲主義ではないのですから。

人間は欲もないと元気が出ません。

私たちの元気の源は欲なのです。

「あれをしよう、これをしよう」

「あれもしたい、これもしたい」

というのは成長のもとにもなるのです。

ですから、欲のない人はだめです。

けれども、その欲が度を過ぎると、貪りになって、自分自身を苦しめるのです。

欲のないのもだめですが、度を越してもだめなのです。

ほどほどにしないと。

では、欲と貪りの境界線はどこか。

これを仏教では

「少欲知足」

といいます。

欲を少し押さえ気味にして、足ることを知りなさいということです。

だから、足ることを知っている間は欲なのです。

人間というのは、順調にいくと足ることを忘れてしまって、

「もっと、もっと」

と言っている間に、貪りの煩悩に引きずられていく訳です。

そのことに気付いていないから、人よりましとあぐらをかいて安閑と人生を過ごしてしまうのです。

この姿を仏教では餓鬼と言っている訳です。