「死に学ぶ生の尊さ」(下旬) 思いを超えて

ということは、死は思いを超えたものなんです。

その思いを超えたものを思いの中に入れて、

「ああしよう、こうしよう」

と力んでいるんですね。

それが、苦しみのもとなんです。

それでも

「思い通りにならない」

とか

「こんなはずじゃなかった」

なんて言っているんです。

そんな上手に死ななくてもいいじゃないですか。

痛いときは痛いと言い、苦しいときは苦しいと言い、どんな死に方をしてもよしと腹が座ったら楽ですよ。

昔は、死ぬ時の作法が決まっていたのです。

「臨終行儀」

といいまして、『往生要集(源信僧都・著述)』の中に書いてあるんです。

大変ですよ、死ぬ時の作法が決まっているんですから。

うかうか死ぬ訳にもいかないですよね。

ところが、親鸞聖人は

「善信(親鸞聖人のこと)が身には、臨終の善悪をば申さず」

とおっしゃっておられます。

死に方の善し悪しを言われないんですね。

みなさん、ホッとできるでしょ。

死ぬ時の作法が決まっていたら、きれいなシーツを敷いて、布団の中に入っていないといけないですよ。

だって、いつ何が起こるか分からないですから。

地震が起こるかもしれないし、交通事故にあうかもしれないし。

でも、まあいいじゃないですか。

「どんな死に方をしてもよし」

ですからね。

だって、死は思いを超えたものなんですから。

同時に、誕生も思いを超えたものなんです。

自分のいのちというのなら、生まれてから今日まで自分の思い通り、予定通りに生きてこれましたか。

今のご主人や奥さんとは、予定通りに出会ったんですか。

違いますよね。

不思議なご縁で、思いがけず出会ったんですよね。

私だってそうです。

生まれてから今日まで、毎日が思いがけないことの連続ですよ。

今日のこの出会いだって、思いがけない出会いでしょう。

そうすると、誕生も、死も、日々の営みも、いのちも思いを超えたものなんです。

その思いを超えたものを思いの中に入れて、所有化している訳なんですよ。

「長いのがよくて短いのがだめだ」

とか、

「若いのがよくて老いていくのはだめだ」

とか、

「生はプラスで死はマイナス」

とか、みんなそうやって一人相撲をとって苦しんでいるんです。

もともと『西遊記』の孫悟空が、觔斗雲(きんとうん)に乗って三界を経めぐり回っても、この話の最後は仏さまの大きな手の中だったというんですよ。

仏さまの大きな手の中に生かされながらも、その手の中で勝手な価値観を持って一人相撲しているのが、私たちの苦しみの正体です。

その自己を超えた大きな世界に生かされていることに気が付いたら、もっと楽なんですね。

何も上手に死のうと思って頑張らなくてもいいんです。

だって、もともと如来のはたらきの中に生かされているんですから。

「本願力に遇ひぬれば 空しく過ぐる人ぞなき」

です。

「これでよかった」

と言って死ねるのです。