「この身をいただいたということ」(下旬)いのち輝かせて

今生かされていることも知らず、その生かされている

「いのち」

がどっちを向いているかも分からない。

畜生は、私たちの話なのです。

せっかくこの身をいただいて、仏法を聞ける身を頂いているときに、この問題を解決しなければならない。

「人身受けがたし、今すでに受く。

仏法聞きがたし、今すでに聞く。

この身今生(こんじょう)に向かって度せずんば、さらにいずれの生にむかってこの身を度せん」。

これは

『三帰依文』

にある言葉です。

この身をいただいたときに、迷いから迷いへの人生を転じて、さとりの世界に向かわなければいけないということなのです。

それが、お浄土に生まれるということなのです。

迷いを繰り返す世界、つまり生死から離れていく。

そして、何ものにも束縛されない所で、いただいたいのちを100パーセント輝かせて生きるような世界を極楽といいます。

この極楽に向いて歩いていくことを往生と言います。

往生というのは、死んでからいい所に行くという話ではないのです。

親鸞聖人は、あまり極楽という言葉を使ってはおられません。

楽というと快楽とか享楽というイメージがありますが、仏教でいう楽とは快楽や享楽ではありません。

このような楽は必ずあとで苦が伴います。

本当の楽とは

「いただいたいのちを何ものにも縛られずに、100パーセント輝かせて生きている状態」

のことです。

この状態を仏教では

「自在」

といいます。

そして、いのちを輝かせてみんなに喜んでもらえたら、こんなに嬉しいことはない。

自在に生きて、他の人のお役に立っていく。

これが極まった世界を極楽というのです。

迷いの人生は流転の人生。

その時々の煩悩に流されている人生。

その流転の人生を越えて往生の人生を歩ませてもらうチャンスを頂いたのがこの身なのです。

この身がいつまでもあるのならば、ゆっくりすればいいのですが、いつなんどきどうなるか分かりません。

蓮如上人は、

「仏法のことはいそげ、いそげと仰せられそうろう」

とおっしゃいました。

他のことは多少遅れても、取り返しのつくことがいっぱいありますが、迷いを出ることは

「いのち」

が終わっても取り返しがつきません。

では、どうしたらこの流転の人生を出られるか。

それを親鸞聖人は

「お念仏ひとつで出ることが出来る」

とおっしゃっておられます。

お念仏を称えるというのは呪文でも祈りでもありません。

お念仏するとは聞くということなのです。

お経でも、お念仏でも声を出すでしょ。

あれは、死んだ人に聞かすために声を出すのではありません。

これは

「我が身が聞く」

ということなのです。

そして、お念仏

「南無阿弥陀仏」

について親鸞聖人は、善導大師のお示しをいただきながら

「お念仏は阿弥陀如来さまが私によびかけてくださるよび声だ」

とおっしゃっておられます。

浄土真宗は、お念仏を称えて救われる教えではないのです。

如来さまのよび声が聞こえて救われていく教えなのです。

称えたら何かいいことがあるということではないのです。

称えて、我が身に聞くのです。

如来さまのよび声、それは

「日が良かろうが、悪かろうが、人がどんな目をしようが、どんなときでもあなたを見捨てることのない私が、あなたのいのちをしっかりとガードして護っていますよ。

だから、つまらんことに気をとられずに、いただいたいのちのありだけを生きよ」

と、わが

「いのち」

によびかけてくださる声であり、それが

「南無阿弥陀仏」

なのです。