「歎異抄に学ぶ人間」−私とは−(中旬)うなずきが大切

あるおばあちゃんの話ですが、そこにお参りに行きますと、もめ事がありました。

私たち人間の世界ではもめ事があるのは当たり前です。

みなさんのご家庭で、いろんなもめ事があるのも当たり前です。

そんなことがない家なんて、どこにもないと思います。

お会いして、ニコニコしていても、そのお顔で陰で人には言えないような悲しみをみんな抱いているんですよ。

だから自分だけと悲観する必要もないのです。

そのおばあちゃんが、

「子どもが5人いるけど、みんな勝手なことを言って…。

一つにまとまってくれればいいのだけど」

と言うんですよ。

よく聞いたら、その一つというのは、おばあちゃんの自分の考え方なんですよ。

みんな自分の考えにまとまってくれたらうまくいくのにと思っている。

けれども、子どもは子どもでそうはいかないということもあります。

「ああ、なるほどそこなんだな」

と、そのとき気づきましたね。

次に第一章には

「弥陀の誓願不思議にたすけまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんと思ひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」

とあります。

ここが

「歎異抄」

のなかで一番難しい文章なんです。

だけども、親鸞聖人の教えの一番中心の部分でもあるんです。

阿弥陀仏の教えというのは、出来のいい人だけを仏さまにするといった分け隔てを一切しない。

そして

「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず」

とあります。

「お年寄りはだめ、若い人だけ」

そんなことはない。

「善人だけ、悪人だめ」

そんなこともない。

「老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」。

そして

「念仏申さんと思ひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨」

いいですか。

ここなんです。

「お念仏をしたら救いますよ」

じゃないんです。

仏さまの教えをいただいて、

「ああ、なるほど、そういうことなんだなぁ」

という深いうなずきが大切なんです。

親鸞聖人の教えの中心と言いますのは

「本願」

「信心」

「念仏」

「往生」

の四つであります。

まず本願というのは、本当の願いのことです。

これはどういうことかと申しますと、阿弥陀仏という仏さまの人間に対する呼びかけです。

「お前はもっともらしい顔で生きているけれども、そういう生き方で本当の人生を生きられるの」

という呼びかけ。

お金があるとか、地位があるとか、ちょっと名前を知られているとかね。

あるいは、自分を大切にしてくれる人がいっぱいいるとか、そういうものに埋没している生き方で大丈夫なの、という呼びかけが阿弥陀仏の本願。

その呼びかけに対して

「本当にそうなんだなあ、そういう世界に生きたいなぁ」

といううなずき、これを信心と申します。

そして次に念仏。

念仏とは、その考えもしなかった尊い教えに出遇わせて頂いた

「なんとそれは喜ばしいことか」

という感謝。

これが私たちのお念仏なんです。

阿弥陀さまの呼びかけに対する不深いうなずき、そして

「尊い教えを頂いた。

南無阿弥陀仏」

という喜びの声。

「南無阿弥陀仏」

なんていうと、テレビなんかではほとんどが死んだときにしか出てこないでしょう。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏のことを

「めでたき言葉なり」

とおっしゃっていますよ。

「めでたきことば」

というのは、私たちが苦しみを乗り越えさせていただく教え。

詳しく言うと、

「めでたきことば」

「尊きことば」

「たのしきことば」

「よきことば」

ということです。

「念仏申さんと思ひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益」

というのは、お念仏を称えたらいいようにしてくださるのではなくて、仏さまの教えをまず聞かせていただくと、人生というものがどういうものなのか明らかになるということです。

若いだけが、健康なだけが人生じゃないですよ。

生きていることだけが人生じゃないですよ、ということが明らかになる。

そこに喜びの

「南無阿弥陀仏」

というお念仏が口をついて出てきます。