では、実際どうしたら死を超えることが出来るのでしょうか。
それは時間を考えることで、答えが見えてきます。
私たちは、時間の概念を学ぶとき、過去に生まれて、未来のどこかで死ぬと思っていますよね。
死ぬとは未来です。
今生きている人は、誰も死を経験したことがありません。
全く未知のことですから、不安や恐れを抱く訳です。
でも、そのように、過去・現在・未来が直線的につながっているという時間の概念は、あくまで一つの考え方なんです。
仏教は、過去・現在・未来をどう考えているかというと、
「今」
しかないんです。
この実感を大事にするんです。
明日というのは、夢・幻の世界です。
明日になったら、明日の
「今」
なんですよ。
常にあるのは、今ここしかありません。
普段考えている時間の考え方とは少し違いますよね。
仏教では、今ここということを非常に大切にします。
仏教では、それを一刹那といい、分割できる最も小さな時間の単位で表します。
今を感じるのは、とても難しいですね。
今といっても、その瞬間に過去になっていますから。
それは難しいから、1日と考えてみましょう。
これは東京大学名誉教授の養老猛司先生や、国際アンデルセン賞級の賞を受賞した詩人のまど・みちおさんも言っていることです。
今日は8月11日ですね。
8月10日の私は、昨日の夜に死にました。
そして、今日の朝、2012年8月11日を初体験する私はここで生まれたんです。
そして今日の夜また死んでいく。
明日の朝、目が覚めなかったら、それは死んだということです。
ということは、死というものは未来にあると思っていたのが、歳の数だけ生まれては死に、生まれては死にを繰り返していた訳です。
それが、仏さまから見た私たちのあるがままの姿なんです。
私の仏教の先生は、お念仏の生活を
「朝目覚めたとき、今日もいのちを頂けた南無阿弥陀仏、と1日がスタートします。
そして夜休むとき、今日私なりに精一杯生きさせて頂きました南無阿弥陀仏、と休んでいくんですよ。
そして、その間に思い出してお念仏をする。
すると、1日がお念仏に始まり、お念仏で終わると喜べますね。
これが浄土真宗です」
と言われました。
これに養老猛司先生や、まど・みちおさんのお話をくっつけると、朝目が覚めたとき
「今日1日のいのちが頂けた、南無阿弥陀仏」
と生を受け、今日が終わるときに
「1日のいのちを精一杯生きさせて頂きました。
南無阿弥陀仏」
と、死んでいく。
仏教っていうのは、実験なんです。
だから志のある方は、1週間でもいいですので、実験してみてください。
朝起きたときには南無阿弥陀仏のお念仏を。
今日眠るとはきは、ああこれで死ぬんだ南無阿弥陀仏と死んでいく。
明日はないんです。
今日しかない。
焦点は、死ぬ準備ではありません。
今をいかに輝かせるか。
それが仏教の中心課題です。
死の問題が解決されれば安心して今を生きていける訳です。
老病死を避けることで安心する訳ではないんですね。
仏さまにおまかせして、精一杯生きていけば、結果として死も怖くなくなってくるんですよ。