じゃあ、そこで仏教がどういうふうに老病死を解決できるのかというと、浄土真宗において
「死」
とは、お念仏を通して超えてすけるものであり、恐れるものではないと言われています。
しかし、そういう文化がないところでは、死が非常に不安なんです。
五木寛之さんは自身の著書『うらやましい死にかた』に、石川県金沢市に住む60歳の男性が投書した事例を挙げています。
内容は次のようなものです。
「曾祖母よみは文久3(1863)年生まれ。
昭和28年に死んだ。
享年90。村の最高齢者であった。
よみが死んだとき、私は高校2年生だった。
あの晩は、能登の春にしては暖かかった。
よみが隣の部屋にいる私を呼んでいるのに気づいたのは10時頃であったか。
よみは“今夜は間違いなく浄土に参らせてもらうよ”と言った。
息をついで、年長である私が、妹3人の手本となるように、貧乏にひがむことのないように父母を大切にするようにと、珍しく教訓めいたことを語り出し、日頃とは違う物言いに驚いている私に
“死ぬということは、少しも特別なことではないがやぞ。
人は阿弥陀さんのところから来てまた阿弥陀さんのところへ帰る。
浄土ではみんな一緒になれるがや”
と、諭すように、ゆっくり話す。
しばらくして、よみは母を呼べと言う。
ワラ布団に半ば身を起こして、母の手を両手で包んだ。
“そろそろ浄土へ参らせてもらう。
あねさんに一言礼が言いたくて。
あねさおはおらの子ではない。
孫でもない。
孫の嫁や。
それなのにこの婆をよく世話してくれた。
本当に大事にしてくれた。
有り難いこと。
有り難いこと。”
よみは繰り返す。
母もよみの耳元に口を近づけて、重ね重ねよみに感謝の言葉をのべている。
よみと母と、後で入ってきた父と3人がいつしか念仏を称えていた。
よみの念仏がやみ、深い息をした時、
「婆さまが参られたぞ。仏壇に燈明をあげよう」
と父の声。
わたしたちも父に従い、深夜の勤行が始まった。
父は現在87歳。
よみのような死を迎えられればと、そんな私の思いは父に通じると思う」
これがね、うらやましい死に方の1番に出ているんですよ。
そこには、往生浄土、何の心配もないんだという世界があります。
浄土真宗では、
「念仏する者を必ず浄土に迎えとるぞ」
という阿弥陀さまの願いを受けとることで、老病死を超えて行くことができるんです。