元気がいいですからね、十二時半ぐらいまで起きています。
やっと母を寝かしつけて、それから原稿を書いたり、いろいろな仕事をします。
そして寝て二時間ぐらいしたら、また母が私を呼びます。
「私が死んだら、どぎゃんするかな」
って言います。
そんな時ですね、爆発するんですよ。
もう押さえていたものが。
「お母さん違うよ、しっかり長生きせないかんたい」
と言うて、自分の部屋に帰って、たまに机を叩くことがあります。
バーンと爆発するんでしょうね。
もちろん、私は母に荒い言葉を言うたり、手をあげたりすることは絶対にありませんけど、もうたまらんようになるんです。
机を叩いた後、涙が噴き出るように出る。
なんという自分だろうか。
たった一人の母親、金持ちの家から貧乏な寺に嫁いで、私を産み、私の父は二十六年間も声が出なかったんですから、そりゃ苦労した母ですよ。
全部分かっとる、理屈ではね。
分かっていながら
「ああ」
と言って机を叩いてしまう。
自分、もう涙が溢れ出ます。
その時に、お念仏が出るんです。
ナンマンダブ、ナンマンダブ…。
悲しい哉というそんな浅ましい私が、仏さまに許されている、抱かれている。
私は走ってご本堂に行きます。
そして、仏さまの前に座って、小さな声でお勤めをします。
こういうことを考えますとね、えらい自分のことばかり申しましたが、この人生の中でずいぶん世の中のも便利になり、豊かになり、贅沢になりましたが、
「悲しみの感動」、つまり私を見つめて、仏さまの光に照らされて、
「ああ、この愚かな浅ましい私」
と気付かせて頂く。
そうして、その浅ましい私が仏さまに抱かれている慶び。
「慶ばしい哉」
という喜びの感動。
これに出遇わせて頂くということが、非常に大事なことなのではないでしょうか。