「いや、問題は範宴少納言を、登岳させたというだけではない」
朱王房は、語気をつよめて、
「――それだけなら、何もたいして、騒ぐこともないが、近ごろ、チラと聞くところによると、座主は、何と心得ているのか、あのわずか十歳の稚僧に、授戒入壇(じゅかいにゅうだん)の式を、許されるという噂なのだ」
「はははは」
学僧たちは、一笑に附して、
「そんな馬鹿げた話が、あるものか。
それや、朱王房の聞きちがえだろう」
「なに、たしかなことだ」
「うそだよ」
「ほんとだ!」
笑いさってしまうには、あまりに、彼の顔つきは、真顔だった。
「誰に聞いた」
「中堂の執務から――」
「何日(いつ)」
「近いうちに、授戒入壇をさせるからと、支度を命じられたという」
「はてな?」
解せない顔つきで、人々は、小首をかしげたが、
「朱王房、よもや、嘘ではあるまいな」
「誰が、こんな嘘をいうか」
「事実とすれば、言語道断だぞ」
「怪(け)しからぬ儀だ」
「私情というほかはない」
「法規の蹂躙(じゅうりん)だ」
学僧たちは、不平と、公憤に、熱して、怒りをおびた。
「まだ十歳や、十一の小童を、山へ連れ登られたことさえ、奇怪であるのに、ものものしい入壇授戒を、あの洟っ垂れの稚僧に、ゆるすとあれば、すこし、狂気の沙汰である」
「陽気のせいだろう」
「笑いごとじゃないっ」
憤然と、立つ者がある。
鼎(かなえ)のように沸いてきた。
昂奮した顔が、
「諸公!」
拳(こぶし)を振って、演舌(えんぜつ)した。
「聞いたか、朱王房のことばを、もし、それにして、事実ならば、吾々は、黙っていられないッ」
「そうだっ」
衆が、答える。
「――範宴少納言とやら、どんな天才か、麒麟児(きりんじ)かしらぬが、そもそも、授戒入壇のことは、円頓菩薩(えんどんぼさつ)の大戒として、吾々が、この山にあって、十年、二十年の修行をしても、容易にゆるされない格式のものだ」
「然り、ここにいる者を、見渡しても、まだ一人も、入壇をうけたものはないぞ」
「それをだ」
と、憤怒の手は空(くう)を打つ。
「まだ、去年の十二月に、麓から、よたよた這い上がった十歳の稚僧に、突如として、これを、授けるとは何事だ。依怙(えこ)にも、ほどがある。私情をもって、大法を紊(みだ)すといわれても、いい開きはあるまい。それでも、吾々は、一山の座主のする業(わざ)であるからと、黙過するか」
「ならん」
「断乎と、排撃すべきである」
また、座の一角から立つ者があらわれて、
「かかる、悪例をひらいては、日本四大山の戒壇(かいだん)にも、悪影響を及ぼそう。また、叡山そのものの恥辱である。こぞって、吾々は、座主の私心を糾弾しようじゃないか」
「そうとも、おのおのは、宿房に帰って、院主や阿闍梨(あじゃり)たちにも、このことを告げて、一山をうごかせ!」
と、さけんで、別れた。