このような心に対して、親鸞聖人は『末燈鈔』第二通の中で、次のように述べておられます。
他力は本願を信楽して往生必定なるゆへにさらに義なしとなり、しかれば、わがみのわるければいかでか如来むかえたまはむとおもふべからず。
凡夫はもとより煩悩具足したるゆへに、わるきものとおもふべし。
またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず。
自力の御はからいにては真実の報土へむまるべからざるなり。
この文には、念仏する三者の心が説かれています。
第一は本願を信楽する者、第二は我が身をわるしと思う者、第三は我が身をよしと思う者、の心です。
第二者の心から考えてみますと、この者は自身を愚悪なる者ととらえながらも、未だ阿弥陀仏の願意を、真の意味で理解していない者だというべきです。
それゆえに、弥陀は大悲心をもって
「汝こそを救う」と来たっているにもかかわらず、その大悲の勅命に淳一に信順することができず、かえって自身を卑屈なまでにおとしめて、おどおどと諂(へつら)いの心をもって、仏の大悲心にすがりつこうとします。
一心に祈願し称名念仏を廻向して、浄土を願い求める者がこの立場になります。
第三者は、これに対して自身を善人だととらえています。
末法の濁世にあっては、真実清浄の心などありえないにもかかわらず、錯覚に陥り、自身の中に清浄性を認め、自ら功徳を積んで往生しようとします。
それ故にこの者は、一見あたかも一心に善根を積み行道に励んでいるかのように見えても、その内実においては逆に仏陀の誓願を無視して、傲慢にも自身を聖者だと思い込む者です。
菩提心を発して行道にいそしむ者の立場がここに見られます。
では、第一者はどうでしょうか。
「他力」とは、阿弥陀仏より言えば、迷える衆生をどこまでも救いとらずにおかないという本願力のことです。
それと同時に、これを衆生より言えば、この私を救わずにはおかないという弥陀の本願力に、ただひたすら信順し信楽することです。
だからこそ、私の信楽する心には、往生の必定を信知するが故に、一切のはからう心は消えています。
これは弥陀の本願に信順し、真実大悲に摂取されている者の立場だと言えます。
先に「大行」の場においては、『無量寿経』の生因三願の意義は逆転すると述べました。
なぜなら、迷える衆生を救うという弥陀の願意と、迷える衆生の心という関係の中で、生因三願を見つめるならば、第三者の心が第十九願意に、第二者の心が第二十願意に重なることになり、行者がはからえばはからうほど、ますます弥陀の誓願に背を向けることになっているからです。
末法の時代、濁世の世においては、衆生には仏道を修する力はありません。
その衆生にとって残された真の仏道は、ただ仏の教法を信じることのみです。
そして、その「信」において、信じる衆生に仏果が開かれる仏法はただ一つ、阿弥陀仏の第十八願の教えだけです。
それは、ここには仏の心が大行となって十方一切の衆生の心に至り来たることが誓われているからです。
この第十八願の教えに信順する者こそ、第一の場に立つ者であり、ここに第十八願の教えが、他の二願に比べて殊に超えて優れた願となる義が確立されることになります。
さらに、この願を信楽する衆生が、末法における最も尊く優れた仏道者、すなわち真の仏弟子ということになります。