範宴は性善房をさがし、性善房は範宴をさがして、半日を徒労に暮らしたが、それでもここで会えたことはまだ僥倖(ぎょうこう)のように思えて、
「どうなさったかと思いました」
と性善房葉、師の無事を見て、欣(よろこ)ぶのだった。
「そちこそ、木津で行きちがったにしても、余りに晩(おそ)かったではないか」
範宴にいわれて、性善房は返辞に窮した。
途中で、山伏の弁海に会い、執念深く追いかけられて、それを撒(ま)くためにさんざん道を迂回した事情を告げればいいことであるが、ああいう呪魔みたいな人間が師の影身につきまとっていることを、話したがいいか、話さないほうがいいかといえば、むろん聞いて愉快になるわけのものではなし、知らさずにおけるものなら、いわないに限ると、独りで決め込んでいたので、
「いえ、私もちと、どうかしておりました。木津の宿で、師の房に似たお方が、河内路へ曲がったと聞いたので、方角ちがいをしてしまったので」
そんなふうに、あいまいに紛らして、さて、疲れてもいるが、月明を幸いに、これから二里とはない法隆寺のこと、夜をかけて、歩いてしまおうではないかとなった。
それから月の白い道を、霧に濡れて、法隆寺の門に辿りついたのは、夜も更けたころで、境内の西園院(さいおんいん)の戸をたたき、そこに、何もかもそのままに一睡して、明る日、改めて、覚(かく)運(うん)僧都(そうず)に対面した。
僧都には、あらかじめ、叡山から書状を出しておいたことだし、慈円僧正からも口添えがあったことなので、
「幾年でも、おるがよい」
と覚運は、快く、留学をゆるしたうえで、
「しかし、わしもまだ、一介の学僧にすぎんのじゃから、果たして、範宴どのの求められるほどの蘊蓄(うんちく)がこちらにあるかないかは知らぬ」
と謙遜(けんそん)した。
しかし、当代の碩学のうちで、華厳の真髄(しんずい)を体得している人といえば、この人の右に出ずるものはないということは、世の定評であり、慈円僧正も常にいわれているところである。
範宴はなんとしても、この人の持っているすべてを自分に授け賜わらなければならないと思って、
「鈍物の性(さが)にござりますが、一心仏学によって生涯し、また、生きがいを見出したいと念じまする者、何とぞ、お鞭を加えて、御垂示をねがいまする」
と、大床の板の間にひれ伏して、門に入るの礼を執(と)った。
ふつうの学生(がくしょう)たちとまじって、範宴は、朝は暗い内から夜まで、勤行に、労役に、勉学に、ほとんど寝る間もなく、肉体と精神をつかった。
「あれは、九歳で入壇して大戒を受けた叡山の範宴少納言だそうだ」
と、学寮の同窓たちは、うすうす彼の生い立ちを知って、あまりな労働は課さなかったが、範宴は自分からすすんで、薪も割り、水も汲んで、ここ一年の余は、性善房とも、まったく、べつべつに起居していた。
冬の朝など――まだ雪の白い地をふんで炊事場から三町もある法輪寺川へ、荷担(にない)に水桶を吊って水を汲みにゆく範宴のすがたが、よく河原に見えた。
すると、ある朝のこと、
「もしや、あなたは、範宴様ではございませんか」
若い旅の娘が、そばへ来て訊ねた。