その時から、原のあなたで、女の泣きさけぶ声がして、範宴と性善房の耳のそばを糸のように流れた。
「やあっ、あの声は梢ではないか」
ここには、朝麿が、なに者かにふいに棒かなんぞでうちたたかれたように気を失っているし、あなたには、けたたましく救いを呼ぶ梢の声がきこえるし、事態はただごととは思われない。
兄に抱き起こされて、気がつくと、朝麿は、
「梢が――梢が――」
と、必死になって、道もない萱原(かやはら)の中へまろび入った。
遠い野火の炎が、雨もよいの、ひくい雲を紅くなすっていた。
火光に透いて、萱原の中に駈けおどって行く、十名ほどの人影が黒く見える。
「梢――」
朝麿が、さけぶと、なにか罵る声が激しく聞えて、彼はまたそこで、中の一人の一撃にあってよろめいた。
性善房と範宴は、朝麿の身を案じながら、すぐその後に駈けつけていた。
まぢかに迫ったとき、二人の瞳があざやかに見た十名ほどの人影は、うたがうまでもなく、人里といわず、山野といわず、野獣のように跳梁(ちょうりょう)する野盜の群れにちがいない。
それはいいが、中に、たしかに、目立って屈強な男が、梢のからだを横向きに抱いていた。
範宴は、
「やっ、あなたは小泉の宿でお会い申した、天城四郎殿ではありませんか」
いうと四郎は、からからと四辺(あたり)へ響くような声で笑った。
「そうだ、この女は小泉の木賃に宿り合わせたときから、それと言い交わした約束があるので、もらってゆく、天城四郎とは偽り、天城四郎とも、木賊(とくさの)四郎ともいう盗賊だ。異存があるなら、なんなりとそこでほざいて見るがいい」
範宴は、この恐ろしい魔人の声を聞くと、世の中のすべてが、暗澹(あんたん)とわからないものになってしまった。
つい、今がいままで、世にも奇特な人として、胸のうちに、あの時の感謝を忘れなかった。
その人物が、仮面を剥いで、そういうのであるだけに、唖然(あぜん)として、しばらくはいいかえすべき言葉もない。