『受け止める大地のありて椿落つ』(前期)

2月といえば、お釈迦様が入滅された月にあたります。

南無阿弥陀仏をいただくということは、命終わると同時にお浄土へと生まれさせていただく教えであり、その阿弥陀さまの大いなるお慈悲のはたらきに気付かされた時、この私の命の有り様が変わっていくことではないでしょうか。

先日、家族と一緒に散歩をしていると、ふと私が高校1年生の時、ボーイスカウト活動の一環で「オーバーナイトハイク」をしたことを思い出しました。

「オーバーナイトハイク」とは夜を徹して歩くハイキングで、やり抜く気持ち・心を学ぶために行う活動です。

ハイキングといっても、私が歩いたのは60キロぐらいを夜通し歩いたのですが・・・

当日の集合場所に行くと、誰ひとりいません。

時間を間違えたのかと思い家に連絡をしましたが、間違いではありませんでした。

しばらくすると、隊長(指導者)が来ましたが他に誰もきません。

やっと先輩が一人来ましたが、用事があるので1,2時間で帰らなければならないとのことでした。

心の中では「もう中止にしてくれ!」と思っていたのですが、決行することになり、とにかく出発をすることになりました。

最初は先輩と一緒ですので、話をしながら楽しく歩いていたのですが、市街地を抜ける頃に先輩は帰ってしまいました。

途中までは(今思えば割と早い段階だったと思いますが)、鼻歌を歌いながらこの調子なら簡単かなと考えながら歩いていたのですが、そんなに甘くありませんでした。

市街地を抜け、どんどん山間の方へと歩いて行きます。

最初は明るかった街並みもだんだん暗くなっていき、車もほとんど通らなくなっていきます。

私の持っている懐中電灯の明かりだけが、自分の足元を照らしている。

途中で地図を確認しながら歩いているのですが、景色も変わらない道を歩いていたり、疲労が溜まってくると嫌なことばかりを考えたり、口にするようになっていました。

「もう止めてしまおうかな。」

「他の仲間が来ないのに、どうして一人であるかなきゃいけないんだ。」

「隊長はなんで車に乗ってるんだ。一緒に歩いてくれればいいのに。」

「こんなことなら来なければよかった。行けって言った親のせいだ。」

ついには、

「どうして街灯の一つもついていないんだ」

「人が歩く所くらい、しっかり整備をしてくれよ」

最初は自分の周りのことに文句や愚痴を言っていたのですが、しまいには道路や景色にまで愚痴を言っている自分がいました。

やっとのことで目的地にたどり着きました。

すると私はどうなったかというと、今まで愚痴を言っていたことなどさっぱり忘れて、達成感だけがどんどん出てきて、自慢ばかりをするようになっていました。

家に帰れば、

「こんなに頑張ったんだから褒めて」、

「何か買ってくれない?」。

仲間に会えば、

「俺は一人で歩いてやったぞ!すごいだろう。」

そんな姿であった私を見かねたのか、父が「お前は本当に一人で歩いたのか?」と一言私に言いました。

考えてみれば、途中まで歩いた先輩は別れるまでの時間、たくさん話をしてくれて、別れるときにはすごく励ましてくれていました。

隊長は、いつも私の先回りをして、休憩場所を確保し、暖かい飲物や軽食を用意してくれていました。

何度も何度も行ったり来たりを繰り返し、私の姿を確認してくれ、道の悪いところでは後ろから車のライトを照らして伴走をしてくれていたはずなのです。

お念仏を聞かせていただくということは、阿弥陀如来さまのお心を知らせていただくことと同時に、本当の自分の姿を知らせていただくことだと教えていただいたことがあります。

阿弥陀さまのお心とは、どんな命であっても必ずお浄土に生まれさせるという誓いの心です。

本当の自分の姿を知るということは、正に私が体験したように、自分の置かれる状況一つで、心をコロコロと変えてしまう愚かな姿であるのかもしれません。

都合のいいことが続いていれば、文句や愚痴をいうこともなく、同時に感謝することすら忘れてしまう。

逆に都合の悪いことが続けば、愚痴や恨み、妬みや僻み、さらには親切にしてくれる人のことさえ悪く捉えてしまう。

そんな私だからこそ救わずにおれない。

心配で仕方がないと、阿弥陀さまはいつもいつもよび続けてくださっています。

タイトルにある「椿」ですが、椿の花は花弁が基部と繋がっていて丸ごと落ちてきます。

阿弥陀という仏さまは、そのままの私を丸ごと受け止めて、そしてお浄土へと導いてくれる仏さまです。

そんな阿弥陀さまの心に気付き、愚かな自分の姿が見えたとき、私の命はどう変わっていけるでしょうか。