親鸞・女人篇 2014年2月22日

なんのお召しであろうか。

庁の中務(なかつかさ)省(しょう)へゆくまでは範宴にも分からなかったが、出頭してみると、意外にも、奏聞(そうもん)によって、範宴を少僧都の位に任じ、東山の聖光院(しょうこういん)門跡(もんぜき)に補(ほ)せらる――というお沙汰(さた)であった。

叡山では、またしても、

「あれが、少僧都に?」と、わざとらしく囁(ささや)いたり、

「二十五歳で、聖光院の門跡とは、破格なことだ。……やはり引(ひ)き人(びと)がよいか、門閥(もんばつ)がなくては、出世がおそい」

などと羨望(せんぼう)しあった。

彼らの眼には、位階が僧の最大な目標であった。

さもなければ勢力を持つかである。

そして常に、武家や権門と対峙(たいじ)することを忘れない。

たれが奏聞したのか、範宴は、それにもこれにも、無関心のように見える。

どんな毀誉(きよ)褒貶(ほうへん)もかれの顔いろには無価値なものにみえた。

ただ、さしもの衆口も近ごろは範宴の修行を認めないではいられなくなったことである。

一つの事がおこると、それについて一時はなんのかの蝉(せみ)のように騒ぎたてても、結局は黙ってしまう。

心の底では十分にもう範宴の存在が偉(い)なるものに見えてきて、威怖(いふ)をすら感ずるのであるが、小人の常として、それを真っ直にいうことができないで、彼らは彼ら自身の嫉視(しっし)と焦燥(しょうそう)でなやんでいるといったかたちなのである。

翌年秋、範宴は、山の西塔(さいとう)に一切(いっさい)経蔵(きょうぞう)を建立(こんりゅう)した。

(他を見ずに、諸子も、学ばずや)と無言に大衆へ示すように。

無言といえば、彼はまた、黙々として余暇に刀(とう)をとって掘った弥陀像(みだぞう)と、普(ふ)賢像(げんぞう)の二体とを、彫りあげると、それを、無動寺に住んでいた自身のかたみとして残して、間もなく、東山の聖光院へと身を移した。

東山へ移ってからも、彼の不断の行(ぎょう)願(がん)は決してやまない。

山王神社に七日の参籠をしたのもその頃であるし、山へも時折のぼって、根本(こんぽん)中堂(ちゅうどう)の大床に坐して夜を徹したこともたびたびある。

彼が、その前後に最も心のよろこびとしたことは、四天王寺へ詣って、寺蔵の聖徳太子の勝(しょう)鬘(まん)経(ぎょう)と法華経(ほけきょう)とを親しく拝観した一日であった。

太子の御聖業は、いつも、彼の若いこころを鞭(むち)打つ励みであった。

初めて、その御真筆に接した時、範宴は、河内(かわち)の御霊廟(みたまや)の白い冬の夜を思いだした。

「あなたは、聖徳太子のご遺業に対して、よほど関心をおもちとみえる。まあ、こちらでご休息なさいませ」

そばについて、寺宝を説明してくれた老僧が気がるに誘うので、奥へ行って、あいさつすると、それは四天王寺の住持で良(りょう)秀(しゅう)僧都(そうず)という大徳であった。

この人に会ったことだけでも、範宴にとっては、有益な日であったし、得難い法悦の日であった。

この年、鎌倉では、頼朝が死んだ。

そして、梶原景時は、府を追われて、駿河(するが)路(じ)で兵に殺された。

武門の流転(るてん)は、激浪のようである。

法門の大水は、吐かれずして澱(よど)んでいる。

正治二年、少僧都範宴は、東山の山すそに、二十八歳の初春をむかえた。

※「奏聞(そうもん)」=天子に申し上げること。奏上

※「普賢像(ふげんぞう)」=慈悲・理智を受け持つ普賢菩薩の像。

※「勝鬘経(しょうまんぎょう)」=釈尊がインド舎衛国波斯(はしの)匿(く)の女で阿踰(あゆ)闍(じゃ)国の友(ゆう)弥(や)王(おう)妃勝鬘のために説いたもの。

※「大徳(だいとく)」=高徳の僧。転じて僧。だいとこ。

※「大水(たいすい)」=大きな川・湖・海。おおみず。洪水(こうずい)。