基礎医学に対して臨床医学、つまり私たちがお医者さんにかかるということは、動物実験をしたり、試験官を振ったりという基礎医学の上に成り立っているわけですね。
仏教も同じで、仏教学というか理論仏教ではなくてやはり臨床仏教、悩みに聞くということが仏教の日常生活だと私は理解しているわけです。
死というものについて、まず他人の死というものが第一にあります。
第二の死は家族ですね。
そして三番目の死は何より自分の死です。
やはり自分を問題にすることが仏教の神髄です。
これを浄土真宗では「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」と言います。
これは八十八歳の親鸞聖人のお手紙『御消息』にあるんですが、
「なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ」。
「去年・今年」というのは、一二五九年と一二六〇年、ちょうど日本が大飢饉だった年なんです。
そして
「ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。
まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。
さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。
如来の御はからひにて往生するよし、ひとびとに申され候ひける、すこしもたがはず候ふなり」と、『御消息』の中できっちり「正定聚(しょうじょうじゅ)」を約束されているわけです。
ですから、この臨床仏教ということは自分の問題であり、そこには病人も老人もおり、死の問題もある。
生死を見つめて初めて自分の問題として考えられる、ということじゃないかと思うんです。
そこで『歎異抄』に「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」とあります。
この間もある友人と話をしたのですが、
「君は地獄に行くのか、極楽に行くのか」と言いましたら、その友人はしばらく考えていて、我々のように浄土真宗のみ教えを頂いていれば
「そりゃあもう極楽浄土で決まりです」と言うんでしょうが、その友人は
「そうだなあ、どちらにも友だちがいるからなあ」って言ったんです。
これは傑作でわらっちゃったんですが、やっぱりそこには
「とても地獄は一定すみかぞかし」という中に「浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし」
と、自分を見つめたすごい意味があるわけです。
そして、私たちがいつも『恩徳讃』として称えさせていただいている「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし」。
「長生きしてどうする」ということは「感謝の毎日を過ごさせていただく」、ここにあるんじゃないかと思うのです。
不平不満のない人はいないけど、そんな中から何とか今日の一日過ごさせてもらえる、何かさせてもらえる、ということを皆さんと一緒に喜びたいと思うんです。