発表された当初は「ノーベル賞級の発見」と騒がれたSTAP細胞。
ところが、やがて誰もが再現実験に成功しないことからその実在が疑われ始め、その後の会見での小保方氏の「STAP細胞はあります!」との発言も虚しく響いただけで、ついに論文そのものに捏造などの不正があったとして撤回されることになりました。
「歴史は繰り返す」という言葉がありますが、今から110年ほど前、同じような出来事があったそうです。
それは、フランスの高名な物理学者、ルネ・ブロンコが1903年に発見したとされる新種の放射線「N線」です。
N線とは、ブロンロが在職していたナンシー大学にちなんで命名されたもので、ブロンロがN線の発見を公表すると、フランスを中心に「自分もN線を観測した」と名乗り出る科学者が続出しました。
ところが、フランス国内では多くの再現実験に成功していたものの、なぜかフランス国外では成功できませんでした。
そのことから、再現実験失敗の報告や再現性への疑問などの批判的見解が、次第に学術誌に登場し始めるようになりました。
そして、N線の存在は、アメリカの物理学者ウッドの実験によってブロンロの主観に基づく錯誤であることが証明され、その存在が否定されました。
N線は今回のSTAP細胞とは違い、ブロンロがN線の発見を公表して以降、フランスを中心に「自分もN線を観測した」と名乗り出る科学者が続出し、わずか数年で100人を超える科学者によりN線に関する論文が300本ほども発表されたにも関わらず、なぜ実在しなかったのでしょうか。
その当時の科学界の状況を窺うと、非常に興味深いことが見えてきます。
N線の発見が公表されたのは1903年ですが、それに先立つ1895年にドイツの物理学者レントゲンがX線を発見していました。
そして、翌1896年にはフランスのベクレルが、ウラン化合物から新種の放射線が出ていることを発見。
キュリー夫妻は放射能の研究を発展させ、1898年にはウランよりもはるかに強い放射能をもつラジウムを発見しています。
これらの業績により、1901年にレントゲンが第1回のノーベル物理学賞を受賞。
1903年にはベクレルとキュリー夫妻がノーベル物理学賞を受賞しました。
この他、1899年にはイギリスのラザフォードが、透過性によって放射線が2種類(アルファ線とベータ線)に分けられることを明らかにしています。
さらに、翌1900年、フランスのヴィラールがガンマ線を発見しました。
このようにN線の発見が報告された1903年頃というのは、物理学の歴史上重要な発見が相次いでなされた時期でした。
したがって、当時の物理学者の間には、「さらに新しい放射線が発見されてもおかしくない」、それと共に「新しい放射線の発見によってノーベル賞級の大きな業績が挙げられる」という空気が存在していことが指摘されています。
ここで、重ねて思ってしまうのは、「iPS細胞に続く日本人学者による再生医療分野での大発見への期待感」が「STAP細胞の発見」を強く後押ししたのではないかということです。
再び話題をN線のことに戻すと、興味深いのは発見者のブロンロに続いてフランス国内では再現実験の成功が続いたのに、国外ではことごとく失敗し、やがてその存在が否定されてしまったのかということです。
このことについて、フランス国内では、観察者や実験者のN線の存在に対する期待感や暗示といった、論理的な思考を妨げ合理的な判断が行なえなくなる偏見、いわゆる「心理的バイアス」があったことが後に検証されています。
実は、当時のフランス国内は愛国心が席巻していました。
殊に、普仏戦争(1870年から71年に行われた,プロイセンを中心とするドイツ諸邦とフランスとの戦争。
ドイツ統一を進めるプロイセンと,それを恐れるナポレオン三世が対立し,スペイン王位継承問題を契機に開戦。
プロイセンが大勝し,アルザス-ロレーヌなどを獲得。
戦中,ドイツ帝国が成立しドイツの統一が完成。
また,フランスでは第三共和制が成立)に破れたことに加えて、1895年にドイツのレントゲンがX線を発見したことがドイツへの対抗心となり、フランス国内でのN線の支持につながったという指摘があります。
ウッドの実験により、N線の実在が否定されて以降、フランスでも誰もN線の話題には触れなくなりましたが、ただ一人、N線の存在を信じ、死を迎えるまで研究を続けた科学者がいます。
それは、N線の発見を公表した、ルネ・ブロンロです。
さて、STAP細胞もかつての「歴史を繰り返す」のでしょうか。
それとも、今後も研究が続けられ、挫折を乗り越えて栄冠をかちとることができるのでしょうか。
再生医療等への貢献の可能性が大きいと期待されただけに、単なる「騒動」に終わるのではなく、後者であることを期待したいものです。