小説・親鸞 手長猿 2014年8月7日

渦、飛沫(しぶき)、狂激する水の相(すがた)。

ごうっ――と鳴って闇の中をすごい水の描(びょう)線(せん)が走っている。

手下たちは、そこの淵まで降りたもののちょっと顔白んで腕ぐみをしてしまった。

「どうして渡るのだ、この濁流(ながれ)を」

すると四郎がいった。

「樹を伐(き)れ」

斧を持っていた手下の者が、

「へい」

と飛びだしたが、渓谷(けいこく)である、樹は多い、どれを伐るのかと見まわしていた。

瀬にのぞんだ岩と岩とのあいだに柏(かしわの)樹(き)の喬木が根を張っていた。

四郎は指さして、

「そいつを河の方へ、ぶっ倒せ」と命じる。

「そうだ、なるほど」

斧(おの)をひっさげた二人の者が、根方へ寄って、がつんと刃(やいば)を入れた。

斧の光が丁々(ちょうちょう)と大樹の白い肉片を削って飛ばした。

空にそびえている梢(こずえ)と葉が、この兇猛な人間の息にかかって、星のような涙をちらして戦慄する。

みりっと、ややそれが、傾(かし)ぎかけると、大勢の手が幹の背を押して、

「もう一丁、もう一丁」

と斧の努力を鞭撻(べんたつ)した。

ぐわあん――と地盤の壊れるような音がして、白い水の跳ね上がった光が闇をまっ二つに割った。

「しめた」と黒い群れは叫ぶ。

仆(たお)れた大樹の梢の先が、ちょうど対岸の岩(い)磐(わ)にまでとどいている。

四郎のわらう声が高らかに動く影の間を流れた。

もう先走った者どもは、架けられた喬木の梢のうえを、四つ這いになって猿(ましら)のように渡っているのだった。

「あぶねえ、静かに来い」

「ひとつ廻ると、みんな振落されるぞ」

「おッと、どっこい」

ひらり、ひらりと十幾つの人影は難なく跳び移った。

そして戯(ざ)れ言をかわしながらどっとそこで一つ笑うと、声もすがたも、たちまち四(し)明(めい)颪(おろし)につつまれて暗い沢の果てへ去ってしまった。

夢の中の人影を見るように尋(じん)有(ゆう)はさっきからそれをやや離れた所からじっと見ていた。

所詮(しょせん)、この激流を越える術(すべ)はなし、夜にはなったし、こよいはこの沢で落葉を衾(ふすま)にして眠るよりほかないものと霰(あられ)の白くこぼれてきた黄(たそ)昏(が)れから木蔭におとなしい兎のような形になってうずくまっていたのである。

「おお……」

思わず彼は立って巨木の架けられた淵まで歩んできた。

「この身の心をあわれみ給うて、弥陀(みだ)が架けて下された橋ではないか」

彼は先に行った人々の態(さま)をまねて、手と膝とでその上を這った。

先の者は苦もなく一(ひと)跳(と)びにして行ったように見えたが、尋有にとっては、怖ろしい難路であった。

樹はまだ息があるように動くに、水はすごい形相(ぎょうそう)をもって呑もうとするような飛(ひ)沫(まつ)を浴びせる。

尋有は眼をつむって、

「御(み)仏(ほとけ)」と硬くなって念じた。