鹿児島を代表する歌手と言えば、まず私が思い浮かべるのは長渕剛さんでしょうか。
熱く鋭い感情、情熱のこもった叫び。
熱狂的とも言える数多くのファンを魅了し、その人間性も含め、幅広い年齢層からの支持も厚く、私も大好きです。
そんな長渕さんの数ある歌の中でも、とりわけ私が大好きなのが「ガンジス」という歌です。
インドを訪ねた長渕さんが、その目に映るインドのありのままを、自分の命と照らし合わせながら、生きるということ、死ぬということを静かに歌っています。
その歌詞に「旅をするのは帰る家があるからだ、さすらいの旅ほど寂しいものはない、(中略)あるのは今、確かに俺、ここにいる、そして明日東京へ帰る」とあります。
旅に出てみて初めて見えてくるもの、当たり前といえばそれまでかもしれませんが、東京という自分の住処、帰るべき場所があったということに感激を持って気付く。
そのことが私にも深い頷きとなって響いてきました。
そしてもう一つ、インドを舞台にしたこの歌から味わうのは「生」への執着。
逆の言い方をすれば「死」への恐怖でしょうか。
「死んだら、灰になるだけさと笑ってみた」と長渕さん自身の表現に、理屈では分かっているけれども、「笑ってみた」というところにこそ、誰もが抱く死ぬことへの恐れや不安がそのままにじみ出ている気がしました。
人生における帰るべきところ。
命の帰する世界とはいったいどのようなところなのでしょう。
言わば人間の究極の問いとも言えるのではないでしょうか。
今月は秋のお彼岸を迎えます。
今でいうお彼岸とは、ご先祖や亡き方を思い、墓前やお仏壇において静かに手を合わせ礼拝、供養するという光景が伝統的です。
けれども、少しその由来について尋ねてみますと、インドにおいて仏道修行に励む期間として、「到彼岸(彼岸に到る)」、悟りに到るということを大きな願いとして努めて励んできたことが始まりであることが知られます。
「彼岸」とは私たちの迷いの世界(此の岸)からみた「彼の岸」ということで、浄土教における悟りの世界は、阿弥陀仏の極楽浄土の世界を指しています。
それが日本に伝わり、『阿弥陀経』に説かれる「西方極楽浄土」を目当てとして、ちょうど夕陽が真西に沈む春と秋のこの時期に、西方の彼方にあるといわれる極楽浄土に思いをはせ、亡き方を偲びつつ、古の人々は夕陽に向かって手を合わせたのでした。
命の帰する浄土の世界から、私たちにはたらきかけてあるもの。
それは、目先の幸福ばかりではなく、命の終わり、人生の拠り所を大きな基盤とする生き方に目覚めよという願いのよびかけです。
「今、確かに俺、ここにいる」という自覚を尚一層深めていきたいと思う、秋の始まりです。