「救われる」とは本当の居場所を見いだすこと(後期)

今から19年前に起きた「阪神・淡路大震災」発生直後、支援のため現地に出向いた時のことです。

一瞬にして家屋が倒壊し被災したおじいさんが、

「地面が揺れて地面が揺れんことの有り難さを知った。水がなくなって初めて水があることの有り難さがわかった」

とおっしゃっていました。

私たちは普段、自分が立っている地面のことなど何も意識していません。

ごくごく当たり前のように生活をしています。

しかし、揺れることのないしっかりとした大地があって初めて、その大地に支えられて生きている安心感が得られることを、おじいさんの言葉に教えられた思いでした。

未曾有の被害をもたらした「東日本大震災」が発生してから数ヵ月の間、現地では余震が続きました。

大小の余震が日常的に発生しましたが、被災地の方々が感じた恐怖は想像するに余ります。

今でこそ少し収まった感がありますが、当時は常に不安と隣り合わせで安心して生活できる状況ではなかったことでしょう。

これらのことを通して思うことは、私の立っている場所。

つまり決して揺れることなく私の足下をしっかりと受け止め支えてくれる大地があってこそ、私たちは安心した生活が得られるということです。

そして、それは物理的な実生活のなみらず、私自身の人生や精神的な面についても同様のことが言えます。

昔読んだ本の中にこのような言葉が紹介されていました。

「人は泣きながら生まれてくる。

この弱肉強食の修羅の巷、愚かしくも滑稽な劇の演じられるこの世間という円形の舞台に、私たちはみずからの意志でなく、いやおうなしに引きだされるのである。

あの赤ん坊の産声は、そのことが恐ろしく不安でならない孤独な人間の叫び声なのだ」

これはシェークスピアの戯曲『リヤ王』で、嵐の荒野をさまよう老いたリヤ王がグロスター伯爵に向かって言う台詞です。

人は皆、「おぎゃー」と産声を上げて生まれてきます。

それより両親をはじめ周囲の方々のお世話を受けながら成長していきます。

知人の保育士に聞くと、既におっぱいを飲む頃から自らの欲求や欲望を持ち始め、保育園ではハイハイをする幼児の間でもおもちゃの奪い合いなどがあるそうです。

小学生、中学生、高校生へと成長するにつれ次第に自我の目覚めというものがあり、青春時代には自分のことは自分で決断して生きていかねばならないという強い願いを持つようになります。

しかし一方で、その生きていかねばならない世の中はどうか。

「人は生まれを選ぶことは出来ない」と言われますが、生まれながらにして裕福な子もいれば、そうでない子もいます。

身体的に健康な子もいれば、重い病気や障害を持って生まれてくる子もいます。

世界に目を向けると、平和で穏やかな地域に生まれてくる子もいれば、物心ついたときから銃を持つ教育を受ける子、食べる物や着る物が十分になくて飢えや病気で亡くなってしまう子もいます。

「人は生まれながらにして平等」という言葉がありますが、それは一人ひとりのいのちの尊厳を謳ったもので、現実の社会にはさまざまな格差や不平等な環境があり、人は皆、そのような社会の中で対立や葛藤を繰り返し、あるいは理不尽な思いを抱えながら生きていかねばなりません。

リヤ王の台詞は、生を選ぶことも出来ず、理不尽な世の中で矛盾を抱えながら生きていかねばならない人間の悲しみを表したものです。

そして人として生きていく営みは老いに向かい、病を抱え、死に向かっていく不安の多い生活でもあります。

さらに人は自分自身で物事を考え、自分自身で物事を決断し、自らを拠り所として生きていこうとするのですが、なかなか自分の思う通りにならないことの方が多いようです。

「救われる」ということは、そのような厳しい現実社会の中で、老病死を抱えながら生きていかねばならない私が、どのような状況にあろうとも、決して揺らぐことのないしっかりとした精神的な大地に恵まれることでありましょう。

「本当の居場所」とはその決して揺らぐことのない大地、すなわち阿弥陀如来ましますお浄土のことで、「救われる」とは、いついかなる時に何があろうとも、この私を抱きとめ生まれさせていただくお浄土が決定したということであります。

「救われるとは、生き方が変わること」と言われた方があります。

厳しい人間社会の中で対立や葛藤を繰り返し、老病死の不安を抱えながら生きていかねばならない私が、必ずお浄土に生まれる身とならせていただくことは同時に、生きている一瞬一瞬が阿弥陀如来に支えられたいのちに目覚めるということです。

自分自身で物事を考え、自分自身で物事を決断し、自らを拠り所として生きていかねばならない私の人生そのものが、阿弥陀如来の願いに包まれ支えられた人生として味わわれていくということです。

いつでもどこでも、どのような状況にあっても、私のいのちが決して揺らぐことのない仏さまの願いに包まれ支えらているそこには、私の人生を根底から支える大きな力と安心があるのです。