むかし頭にちょんまげを乗せていたころは、この「嗤(わら)う」が借用証文なんかにも使われたんです。
「もしこの金額返済し得ざるときは、満座の中にてお嗤いくださるとも苦しゅうござなくそうろう」。
このお金が返されへんときは、人のいっぱいきておる中で嗤いものにして頂いて結構です。
つまり、「わらわれるようなことしたらいかん」とか「わらわれないようにしなさい」というのは「嗤う」なんです。
これは言わば不健康な「わらい」。
「笑い」は健康な「わらい」。
ところが今、「嗤う」が使われなくなってきて、全部「笑う」になったから、どのわらいが健康な「わらい」で、どのわらいが不健康な「わらい」か区別できなくなったんですね。
みんな「わらい」は一種類ということになったんです。
でもそうじゃない。
健康な「わらい」はいくらわらってもいい。
不健康な「わらい」は気を付けないといかんのです。
だいたい「わらえる」とうのは健康な証拠なんです。
健康でないとわらえない。
病気のときわらうことはできないんです。
私は依然病気で倒れたことがあるんです。
昭和六十二年八月十一日の朝、北海道の札幌でのことです。
その日は大阪に帰って、一月いっぱいでなくなりましたけど道頓堀の難波座で怪談話をやる約束があったんです。
だから朝早く起きて一番の飛行機で帰らないといかん。
それで朝起きておしっこに行こうと思ってひょいと体を起こしたら、片方の手だけベッドの上に残ってるんです。
そんなことないんです、はずせるわけないんですから。
おそらくそのときすでに私の体は起きていなかったんだと思うんですけど、自分では起きたつもり。
もう一方の手でその残った手を取りにいった。
そしたらズルッと。
「えらいこっちゃ」思うたらもの言われへんようになった。
脳卒中です。
そのときたまたま嫁さんが横にいて「お父さん、えらいこっちゃ」言うて救急車呼んでくれた。
人間運不運てあるんですね。
私が倒れた厚生年金会館の付属ホテルの筋向い、ものの三分もかからないところに中村記念病院という北海道一と言われた脳神経外科があったんです。
それで「手術の承諾書はのちほど頂きます。一刻を争いますから」言うてストレッチャーに乗せられて手術室へ。
今まさにメスが入ろうとしたとき、私がパッと蘇生して、目開いたから「まてまて」と。
それで先生が私の顔見て「あんた自分の名前言えますか」て。