浄土真宗は、なぜ西本願寺と東本願寺に分かれたのですか?

親鸞聖人のお流れをいただく宗派は、現在「真宗10派」といわれており、その10派で「真宗教団連合」というものも結成されています。

それらは親鸞聖人の血縁の本願寺ゆかりの宗派と、親鸞聖人の高弟を中心とする門徒集団の流れをくむ宗派からなります。

その「真宗10派」の中でも比較的大きな組織が本願寺派(通称、西本願寺)と大谷派(通称、東本願寺)の2派であります。

もともとその2派は本願寺第11世顕如(けんにょ)上人の時代までは一つの宗派でした。

しかし、時はいわゆる戦国時代で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの戦国武将が名を馳せた時代でありました。

本願寺教団もその時代の波にのまれ、当時本願寺は石山(現在の大阪城)の地にありましたが、強大な権力を握った織田信長とその寺領の明け渡しをめぐって戦(石山合戦)となりました。

10年にも及ぶ戦ののち、その和解に際して本願寺内で和解をすすめた顕如と、あくまで織田信長との徹底抗戦を主張した長男の教如(きょうにょ)との間で確執が起こり、やむなく顕如は教如を一時的に勘当しました。

これがのちの本願寺東西分裂の要因となったと言われています。

石山合戦の和解から間もなく、信長は本能寺で討たれ、やがて豊臣秀吉が天下を統一します。

秀吉は信長と違い本願寺を敵視せず、むしろ友好関係にありました。

石山合戦より11年後の1591(天正19年)年には、本願寺顕如は秀吉より京都の六条堀川の地を与えられ、現在に至るまでこの地に本願寺はあります。

11世顕如死後、勘当がとかれていた長男の教如が一時的に12世を継ぎましたが、秀吉の強い後押しもあり弟の准如(じゅんにょ)が正式に本願寺の宗主を継ぐことになります。

教如はやむなく隠棲(いんせい)しますが、やがて秀吉に代わって天下をとった徳川家康から1602(慶長7年)、京都六条烏丸(からすま)に土地を与えられ、本願寺を別立しました。

こうして教如の東本願寺と准如の西本願寺が分立することになりました。