「いのちとはいったい何でしょうか。」
そう問われて、即答することができますか。
私たちは日々、こうして生きていますから、「いのち」については何となく分かったつもりになっているのですが、改めてそのことを問われると、答えに困って「………」ということになってしまうかもしれません。
私たちのいのちの見方について、弘法大師(空海)は次のように述べておられます。
生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の初めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに暗し。
これは、人間は生まれてきたけれども、生まれてきたということが分かっていない。
人間は死んでいくけれども、死んでいくということが分かっていない。
私たちの人生は、分からないところから始まって、分からないところへ行く。
それが人生というものだ、ということです。
分からないところから始まって、分からないところで終わるのが私たちの人生だとすると、「いのち」について私たちは、生きている間は何となく分かっているつもりでいるのですが、結局のところ何も分からないままに死んで行くのだと言えます。
だいたい、私は自ら「生まれたい」と思って生まれてきた訳ではなく、気がついたら既にこの私として生まれていました。
しかも、生まれた時に自分が「生まれた」という自覚もなく、意識の中にもそのときの記憶など全くありません。
おそらく、3歳未満の頃の記憶がある人など殆どいないのではないでしょうか。
それにもかかわらず、自らのことを自覚できないでいた間も、私たちはしっかりと生きていたのです。
思うに、私を私だと理解することもないままに生きて来ることができたのは、私を生かすために無数のいのちが私のいのちを支えてくれていたという事実があったからではないでしょうか。
周囲の家族の手助けがあったことは言うまでもなく、私のいのちは多くのいのちによって今日まで支えられてきたのです。
それは、海の、大地の、無数の生き物のいのちを食べて生きてきたということです。
私たちが生きていくということの根底には、このように生き物の「いのち」を食べるという事実があります。
もちろん、他の生き物も生きていくためには他のいのちを食べて生きています。
ただし、人間が他の生き物と決定的に違うのは、生き物であることの意味を問い生き物であることの恐ろしさを実感することができるということです。
この地球上で、そのようなことができるのは私たち人間だけです。
考えてみますと、この世に生を受けている生き物の中で、自ら「死にたい」と思う生き物がいるでしょうか。
そのようなことを思い、実行してしまうのはこれも人間だけです。
この世に生を受けたすべての生き物は、そのいのちが尽きる瞬間まで、「生きる」ことを全うしようとします。
つまり、その根底に自身のいのちを「生き尽くす」ということがあるのです。
そうすると、すべてを生ききろうとしている生き物の「いのち」を、自身が生きるためとはいえ、私たちは直接、あるいは間接的に殺して食べているのですが、言葉が通じないから分からないだけのことで、ただ黙って死んでいく生き物などいないのではないでしょうか。
もし、私が食べられる方の側だとすると、食べる者に対しては、少なくとも自分のいのちを無駄にしない生き方をしてほしいと願うのではないかと思います。
そして、もしただ食べて死んでいくだけなら、私の死は無駄死にということになってしまう、と痛憤するかもしれません。
私のいのちは、このように無数の願いに支えられているのですから、生きている私の「いのち」は、ただ何となく生きているのではなく、大きな責任を果たさなくてはならない「いのち」なのだと言えます。
その責任とは、私のために願いをかけて死んでいった多くの「いのち」の願いを成就するということです。
このような意味で、最初の「いのちとはいったい何でしょうか。」という問いに対する答えは、「いのちとは、願いの結晶」だということになるのではないかと思います。
生きて行く限り、私たちは多くのいのちを頂いて生きて行くことになるのですが、それは、日々多くのいのちに願いをかけられて生きて行くということです。
私の「いのち」は決して私一人のものではなく、多くの「いのち」が共に私の中で生きているのですから、私は多くの「いのち」代表して生きているということになります。
そのような私の「いのち」に代理などあるはずはありません。
「私のいのちに代理なし」ということは、私が多くのいのちの願いを成就するのは私をおいて他にはなく、その責任を全うしていくのだという自覚を持つところから始まる尊い歩みを仏道というのだと思います。