「ここに――」
と、月輪の老公は、混みあう人々の間から、上人の前へすすんで出た。
「おお」と、さすがに法然もその人のすがたを見ると、名残が惜しまれて、しばらく、老眼にうるみをたたえ、
「おわかれが参った」と、いった。
「…………」老公は、無言だった。
いわぬはいうにまさる悲しみだった。
「永い間、月輪どのには、陰に陽に、念仏門のために、一方ならぬお力を貸して賜われた。偏(ひとえ)に仏陀と衆生のためとは申せ、浅からぬご法縁、たとえ法然、遠国に朽ち果てようとも、ご高誼(こうぎ)のほどは忘れませぬぞ」
と、法然は、老公の手をとっていった。
――そしてまた、
「善信が出立も、卯の刻の由に承る。もう時刻もやがてに迫っておろう。くれぐれも、身をいとうように仰せ伝え賜われ。――同時に、法然が身には、仏の御加護あれば、必ず、案じるに及ばぬことをも」
「承りました」
「では」
輿は、その言葉の終るのを待って、舁(か)き上げられた。
法勝寺の門を出てみると、そこには、多年、上人から直接に、間接に、教えを受けた受学の僧俗や、檀徒や、ただ徳を慕うて群れ集まってきた洛中の男女が、
「オオ……」
思わず、口のうちに唱える念仏が、涙となり、声となって、輿も通れぬほど、立ちふさがる。
「お退き下さい」
「念仏は、おつつしみ下さい」
弟子のうちでも、大力の聞こえある角張成阿随蓮(すみばりじょうあずいれん)が先に立ち、そのほか十二、三名の随身が、群集の涙の中を、頻(しき)りに宥(なだ)めて道を開かせていた。
法勝寺から半町もすすむと、
「その輿、われに舁かせ給え」
と、弟子たちは、領送使の輿舁(こしかき)たちから、それを奪うようにして、自分たち、随身の者ばかりの手で、師の輿を捧げて行った。
――七条を西へ。
大宮を下って、鳥羽街道を真っすぐに進んでゆくのであった、その途中の辻々や、畷(なわて)や、民家の軒や、いたる所に、上人の輿を見送る民衆が雲集して、
「おいたわしや」
「勿体ない」
「なむあみだ仏――」
貴賤のべつなく押し合って、なかには輿の前へ走り寄り、
「あなたのお体は、遠国へながされても、あなたの生命は――念仏は――この日ノ本の大地から失われません」
と、絶叫する若者だの、
「これを上人様に――」
と、真心こめた餅や、紙や、花などの供物を捧げる老媼(おうな)だの、
「せめて、お足の痕(あと)の土を」
と、輿の通った後の砂を紙にすくっている女だの、名状し難い哀別のかなしい絵巻が、到るところで描き出された。
「――さらば」
と、大地に坐って伏し拝む人々とまじって、月輪の老公は、大宮口まで従いてきて、その輿を見送り、すぐ牛車を返して、岡崎のほうへ急いだ。
――もう一刻(いっとき)後の卯の下刻には、上人を見送ってまだ乾く間のない涙の目で、さらに、わが息女聟(むすめむこ)の善信を、こんどは、北の雪国へ向って送らなければならなかった。